皆さん、おはようございます。秋も深まり、暖房が恋しい季節となりました。皆さんは、いかがお過ごしですか?そんな中、日本では衆議院選挙、アメリカでは大統領選挙に向けて、候補者たちの動きが活発です。一方で、スポーツでも野球の世界が盛り上がりを見せています。日本のプロ野球もアメリカのメジャーリーグも、レギュラーシーズンの優勝チームが決まり、それぞれのリーグの優勝チーム同士による最終決戦が始まろうとしています。今年は、国民的ヒーローと言ってもいい大谷選手がメジャーリーグのワールドシリーズ制覇をかけて戦うということで、多くの野球ファンは楽しみな10月をすごすことになりそうです。
そんな大谷選手のことを思い浮かべているときに、「マタイによる福音書」の25章にある“タラントンのたとえ”の箇所が連想されましたので、今日の宗教講話はまずその箇所をお読みします。
聖書『マタイによる福音書』25章14~30節
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
世の中には、生まれながらに多くのものを与えられているなと感じさせる人が、確かに存在します。身長が193センチもあって、その上、整っていながらも愛嬌を感じさせる笑顔が魅力的な大谷選手を見ていると、その活躍ぶりにはすごいなあと感心しながらも、体格に恵まれているからなあと、多少のやっかみ交じりの感想が湧いてくることがあります。
大谷翔平選手にしても、プロボクシングの井上尚弥選手にしても、将棋の藤井聡太さんにしても、瞬間的にではなく、何年にもわたって他を圧倒する戦績を残している方々は、きっと他の人に比べて何かの能力が優れているということはあるかもしれません。
しかし、生来の可能性を自らの確固たる技術・能力にしていくためには、毎日の継続的かつ計画的で集中的な鍛錬が絶対に必要だったと思います。外からの誘惑や内なる衝動に苦しむことがあったとしてもそれに飲み込まれず、また、挫折や失敗を経験してもあきらめてしまわず、何が失敗や敗北の原因だったかをきちんと受け入れ、次の向上のための出発点とする、そうした地道な姿勢を大事にしておられると思います。
多くを与えられているように見える人たちが、その能力を維持したり一層高めていくためには、並々ならぬ努力が必要なのだろうと思います。ものすごい契約金を提示されて、つまり、それだけの能力があるとみなされ、その額に見合った活躍を当然のことのように期待されて新チームに移籍した大谷翔平選手ですが、毎日をどう過ごしているのかと質問されて、試合でよいパフォーマンスを発揮するために良い準備をしたいと答えています答え、さらに、良い準備のために、しっかりとした睡眠をとることを何よりも大事にしていますとも答えておられて、とても感心したのを覚えています。
周囲を見回しますと、誰かのために、より多くの人の幸せのために、より良い社会の実現のために、また、自分に与えられた能力を最大限に磨き上げるために、何かの夢のために、真剣に頑張っている人たちがいます。それぞれの分野で活躍され、目立つような成果を あげておられる方々にしばしばお見受けすることだと感じていることがあります。そうした方々の多くが、たびたび誰かへの感謝の思いを語っておられます。自分をその世界へ誘ってくれた人物、挫折したときや道を見失いかけていたとき寄り添い導いてくれた人物、自分への変わらぬ信頼を向け続けてくれた人、毎日見守ってくれた人たち、そうした方々の存在があったから、今の自分がいるのだということを忘れていないのでしょう。
また、誰かの支えと自分自身の努力の先に、いろんなものを手にした方々は、いつしか自分たちが得たものを誰かに分け与えていこうとする思いも強くなっていくのかなと感じることもあります。大谷選手が日本の小学校に野球のグローブを贈ったことはよく知られたエピソードですが、同じように自分が手にしたものを、助けを必要としている人のために喜んで差し出せる人たちがいます。わたしたち光星学園の先輩方にもそのような方がたくさんおられます。皆さんも、自分の心と体を豊かに成長させ、他者の幸せのために貢献できる人になってほしいと、切望しています。
皆さん、おはようございます。札幌はどうやら暑い季節も終わり秋を迎えているようですが、いかがお過ごしですか?一昨日が“敬老の日”でしたので、今日の宗教講話では“老い”ということに関連して話してみます。
聖書の言葉『ヨハネによる福音書』21章18~19節
「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
老いることや死ぬことは、この世に生を受け成長していくわたしたちの肉体が、やがて直面することになるであろう現実です。そして、ヨハネ福音書の中に記されているとおり、老いていくことによって若いときには何不自由なくできていたことが少しずつ困難になっていき、誰かの助け無しには動くこともままならないという状況がおこったりします。
厚生労働省の「人口動態統計」によれば、昨年2023年の1年間に日本国内で亡くなられた方は159万人に達したそうです。これは過去最多の数だそうですが、2040年頃にはピークの160万人に達するのではと予測されています。いっぽう、昨年の出生者数は約72万7千人だったそうで、年々減り続けています。すでに2007年に、65歳以上の方の全人口に占める割合が21%を超えて、「超高齢化社会」と呼ばれる状況に突入している日本では、少子化とも相まって、2025年には国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上の人口構成になると予測されています。そういう中で高齢者の死亡数が増加傾向にあるのは自然なことでしょうが、そこからさまざまな課題が生じてくるだろうと、各方面から警鐘が鳴らされています。
そういう現代社会の中で、高齢者・お年寄りが長生きして申し訳ないと自分を責めざるを得なくなるような、生きづらさを感じるような状況が作り出されてはいないでしょうか。フランシスコ教皇は、今年7月28日の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」のためのメッセージの中で次のように述べておられます。「高齢者が必要とする社会サービスの費用を若者に背負わせることで、国の発展のための資金、ひいては若者のための資金を吸い取っている、という考え方が広まっています。この現状認識は歪んでいます。高齢者の生存が若者たちの生存を危うくしているとでもいわんばかりです。世代間対立は錯誤であり、容認できない一種の操作です。」さらに教皇は語ります。「あらゆる環境、状態、状況を超えて、人間一人ひとりが所持するいのちの無限の尊厳というものに重きを置かずに多くの選択や決断がなされていますが、個々人の価値が見失われていくと、人間はただのコストと化し、場合によっては割に合わないと見なされてしまうのです。さらに悪いことに、高齢者自身がこうした考え方に支配されてしまうこともしばしばで、自分たちは重荷なのだと考えてしまい、率先して身を引くべきだと感じるようになるのです。」
また教皇は、共に生き、互いに支え合うことをうっとうしく感じ、他者とのつながりをできるだけ希薄なものにとどめたいという文化が現代に蔓延しているのではないか、そしてその考え方が老いを考えるときにも影を落としているのではないかと、次のように指摘されます。「現代では、多くの人が、できるだけ他人と接点のない生活において自己実現を図ろうとしているように見えます。互いに助け合おうという仲間意識が危機に瀕し、己のことは己でという個人主義的な生き方がもてはやされているように感じます。「わたしたち」から「わたし」への流れは、現代を顕著に表すものの一つです。家庭は、自分の力だけで自分を救うことができるという考え方に対する、第一の、そして最も基本的な反証であったはずですが、こうした個人主義的な文化の犠牲になっているものの一つです。けれども歳を取り、次第に力が衰えていけば、誰も必要ではない、人とのつながりなしに生きていける、という個人主義の幻想は、その実態を露呈することとなるのです。まさに、自分には何もかもが必要になっていると気づいても、もはや独りとなっていて、助けもなく、頼れる人もいないのです。多くの人が、手遅れになってようやく気づく厳しい事実です。」
かつて国連の事務総長であったアナン氏が1999年の第2回高齢者問題世界会議における演説中に紹介されたものだそうですが、アフリカに「一人の高齢者が死ぬと、一つの図書館がなくなる」ということわざがあるそうです。一つひとつの命を尊び、一人ひとりが生きてきた時間の積み重ねに敬意をはらい、社会の中で経験豊かな高齢者を知恵の宝庫として敬う、そういった精神が大切にされていた時代が確かにあったんだということを感じさせる言葉です。わたしもときどき考え事をしていて、とくに故郷の歴史や人間関係について確かめたいと思うようなとき、書物を読んでもなかなか納得する答えにたどり着けないことがあります。そんなとき、祖父母や両親が生きていたときに尋ねておくべきだったのに、とほぞをかむことが何度もありました。皆さんも、積極的にご両親やおじいちゃんおばあちゃんに接する時間をつくり、気になることがあったら何でも尋ねて確かめておくことをお勧めします。そうすることで、人生に向かい合うための生きた知恵を豊かに育んでいけると思います。
皆さんおはようございます。夏期休暇も終わり授業が再開されましたが、休暇中はどんな風に過ごされましたか?のんびりマイペースで生活し過ぎて学校生活のリズムを取り戻すのに苦労している人はいませんか?全国大会で強い相手と戦い、悔しさを味わいつつも新たな課題を見つけてもうすでに前向きに取り組んでいる人もいるかもしれませんね。
わたしはずっとテレビにかじりついていたわけではありませんが、ときどきパリオリンピックや高校野球で選手たちが頑張っている姿をテレビや新聞で見て何度も心揺さぶられていました。試合に破れて激しく泣き崩れる選手たち、勝利して歓喜の雄叫びを上げる選手たちの姿を見ながら、それまでにどれほどの練習を積み重ねてきたのだろうかと思いをはせていました。また死闘を繰り広げた直後に互いに握手し抱擁する姿を見ながら、互いを思いやれる人間力を高める力をスポーツって持っているんだなあと感じさせられていました。今日の宗教講話ではそうしたスポーツの世界に触れているパウロの言葉を取り上げながらお話ししてみます。
聖書の言葉『コリントの信徒への手紙Ⅰ』9章24~25節
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、 賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。 彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、 朽ちない冠を得るために節制するのです。
新約聖書には、イエス・キリストご自身が語られたり行動されたりしているのを弟子たちが思い起こして物語風に書き記した福音書と呼ばれる文書がありますが、福音書の他に、弟子たちが関わりのあった地域の信徒たちを指導し励ますために書き送った手紙もいくつか収められています。
今お読みした「コリントの信徒への手紙」は、パウロという人が書いたとされるものです。パウロはトルコやギリシアのあちこちにイエス・キリストの教えを述べ伝え、各地に信徒の共同体を誕生させましたが、他の土地に赴きながらも各地に残した信徒たちのことを気遣いときに励ましときに叱るような多くの手紙を送っていたようです。コリントはギリシアのペロポネソス半島のつけ根にある町でした。
古代ギリシアの時代、ペロポネソス半島の西部にあるオリンピアにはゼウスの神殿があり、そこでは神々にささげられる祭儀と並んで盛大なスポーツの祭典も行われ、ギリシア各地からレスリングや、投てき競技、跳躍や徒競走などの選手が集まり、腕を競い合い、最終勝者にはオリーブの冠が与えられその栄誉がたたえられていたと言われます。各地方都市でも競技会が行われ、それを目指して集まった選手たちが日々の鍛錬の成果を披露し、観衆が熱狂的に応援し勝者を賞賛しました。そして、各地の勝者や有力者が数年ごとのオリンピアでの大会を目指して集結する仕組みができていったようです。
パウロが滞在していた紀元後1世紀半ば頃のコリントの町のそこかしこでも、走ったり、投げたり、ジャンプしたり、組み合って技をかけるなどの鍛錬をしている人々の姿が見られたのでしょう。また立派な競技場での競技会の情景も目に入っていたことでしょう。そんな光景を眺めながら、パウロの心に刻み込まれていたのは勝利の栄冠を目指して練習している選手たちの厳しく節制し鍛錬する姿でした。体の身軽さ敏捷さを保つために食事をコントロールしたり、重りを縛り付けるなど負荷をかけて筋肉の増強に励んだり、インターバル走を繰り返しながら心肺機能を高める努力をしたり、いろいろな欲求に流されまいとする強い意志に基づく克己と鍛錬の姿でした。それはパウロにとっても感嘆の念を引き起こすようなものでした。
その一方で、パウロの心の中にはイエス・キリストの教えた「この世のいつかさび付いたり枯れて古びてしまうような冠や栄誉や冨のためではなく、永遠に朽ち果てることのない宝を目指しましょう」との言葉が響いていたと思われます。競技者が必死の思いで鍛錬し生傷を帯びながらやっとの思いで手にしたオリーブの冠も群衆の大歓声も、残念ながらいつしか色あせ忘れ去られていきます。しかし、イエスは教えます。神様が与えてくださる栄冠は決して消え去るものではありません。また、それはたった一人に授けられるものでもありません。神様からの愛を感じながら、その愛にうながされて自分中心の利己的な殻を破り、まわりの人に心を開き、他者の必要に応えるために勇気を持って自分を差し出そうと務めるすべての人たちに、神様が勝利の冠を用意してくださるのです、と。
皆さんも、毎日の生活の中で、少しずつ弱い自分、利己的な自分に打ち勝ち、まわりの人の幸せのために自分の持っているものを分け与えていけるよう鍛錬することに挑戦してみたらどうでしょうか。たとえば手始めに、家族や身近な人に向かって、笑顔で、挨拶の、感謝の、励ましの声がけができるようにチャレンジしてみませんか。うまくいかなくても何度でも繰り返しトライしているうちに、他人を思う心や手を差し伸べようとする愛の心が強められていくと思います。
皆さんおはようございます。中間試験が終わり、高校の遠足や中学のスポーツデイといった行事も無事終わりました。次に控えている大きな行事である学校祭に向けて、生徒会の人たちも、各クラスの皆さんも自分たちの計画をしっかり形あるものにするために準備を進めていこうとしていることと思います。それぞれの場面で、いろんな意見を出し合い、力を出し合って、充実した学校祭となっていけたらいいですね。また暑さもいよいよ厳しくなる中で、部活動や勉強もしっかり取り組んでいこうと決意を新たにされている人も多かろうと思います。どうぞ、体調に気を配りながらまた励まし合いながらがんばってください。
さて、今日の宗教講話は「ヨハネによる福音書」2章1~11節に記されている“カナでの婚礼”というタイトルがついている箇所を最初にお読みします。皆さんのお手元の新約聖書では165ページの下の段から166ページの上の段にあります。結婚式のために用意されていたぶどう酒がなくなったことにいち早く気がついたマリア様がそばにいたイエス様になんとかできませんかとお願いし、結果的にイエス様が水がめの水をぶどう酒に変える奇跡を行ったという箇所で、一度は耳にしたことがあるかもしれません。
聖書の言葉『ヨハネによる福音書』2章1~11節
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
今お読みした“カナでの婚礼”の場面をわたしが取り上げる場合には、これまではしばしば、困っている人、助けを必要としている人のことに心を配っておられるマリア様の優しさに焦点を当てて話すことが多かったと思います。彼女の取りなしが時としてイエス様や神様の心を動かして、必要としている人たちに神様からの祝福や恵みが与えられるように仲介してくださっているというふうに展開し、マリア様への信頼の心を持って彼女に願って見ましょうと呼びかける内容のお説教が多かったと思います。
今日の宗教講話では少し別の視点から話してみます。イエス様とマリア様が果たされた役割の他に、その場面に居合わせたおそらく若かった召使いたちが果たした役割にも目をとめてみたいと思います。楽しい婚礼の宴が滞りなく進んでいた中で、ふと気になる動きがマリア様の目にとまります。おそらくぶどう酒が入っていた瓶(かめ)から食卓用のぶどう酒入れに注ぎ入れようとしていた召使いたちが、残り少なくなっているぶどう酒に気づき、急いでその家の主人に報告している様子に気づいたのでしょう。最初にマリア様が隣にいたイエス様にお願いしたときには、イエス様からはすぐには望むような反応が返ってきませんでした。しかし、マリア様はその家の召使いたちをそっと呼んで耳打ちします。「このイエスという人にお願いすればなんとかなるかもしれません、この人の言うとおりにしてみなさい。」
召使いたちが若者たちだったか中年にさしかかっていたかわかりません。女性だったか男性だったかも明記されていません。わたしはその召使いたちの中には結婚前の若い男女もいたのだろうなと想像します。自分たちを雇い入れ働かせてくれている家の大きな祝い事を無事に成功させようと、一生懸命に動き回っていた彼らが、ぶどう酒が底をつきそうになるというどうしたらいいのかわからない、途方に暮れるような状況に直面しています。そのときに召使いたちは、その家の主人や結婚の宴の世話役になっていた人の見積もりが甘かったとかなんとか誰かの責任を責め立てるかたちでバラバラになる方向に向かわないで、客たちの中にいたマリアのアドバイスに委ねて、なんとか皆で良い解決を探してみようという方向に決断します。
こうしてマリア様に促されてイエスのそばに集まった召使いたちの真剣なまなざしも、イエス様の心を動かす要因の一つになったのではないでしょうか。もしかしたら、わたしたち人間が誰かのために真剣に協力しようとするその取り組みを、神様は助け支え導いてくださるのではないか、そのようにも感じます。それは、聖書の別の場面に出てくる“パンのふやし”の奇跡でも見られると思います。イエスの話を聞きに集まってきた大勢の人たちが空腹だろうと心配になりながらも、どういう手立てを講じたらいいか見当もつかない若い弟子たちを見て、神様からの恵みを願った後で、その場にあった少しのパンを渡しながら、あなたがたが皆に配りなさいと励まして、結果として皆の空腹が満たされたというものです。
光星学園の中でも、学園の外でも、誰かのために何かしようよという呼びかけを度々耳にすることがあると思います。そんなとき自分だけではたいしたことができないからと、通り過ぎてしまうことがあったかもしれません。でも立ち止まって誰か一緒に行動してくれる仲間がいないか待ってみてはどうでしょうか。ボランティア活動なども、それに関わるいろんな人たちとの支え合いや励まし合いによって、自分のうちの善や平和を願う心が強められ、また誰かと一緒に協力することで得られる社会への参加の体験は皆さんの成長に直結するものとなるでしょう。マリア様が召使たちを見守り励まし同伴してくれることによって、召使たちの共感する力、善を求めてあきらめない姿勢が強められ、結果的に想定以上の善いものがイエス様からもたらされたという今日の福音書のメッセージを皆さんと分かち合いたくてお話をさせていただきました。
おはようございます。立夏は過ぎましたが上がったり下がったりと目まぐるしく変化する気温のせいで、心身の体調維持に苦労されている人も多いのではないかと思いますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。これからは多分暑くなる一方だろうと思いますので、食事や睡眠に気を配って乗り切ってください。
今日選んだ聖書の箇所は、「ヨハネによる福音書」19章25~27節です。神様を冒とくし人心を惑わせたということを同胞であるユダヤ人指導者たちから訴えられ、ローマ法の下で死刑宣告を受け十字架にはりつけられる磔刑に処せられたイエスが、苦しみの中で息を引き取ろうとするその間際で、悲しみと嘆きのまなざしで自分を見上げている母マリアと弟子のヨハネの姿を認め、この二人に向かって遺言と言ってもよい言葉をかけておられるシーンです。
聖書の言葉『ヨハネによる福音書』19章25~27節
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
十字架上で命がつきようとするときに語られたイエスの言葉は、マタイやマルコやルカの福音書でもいくつか記されていますが、ヨハネ福音書に記されているのは、ご自身の母マリアに向かっては弟子たちを母親の愛をもって見守ってほしいと願い、弟子たちにはマリアを自分たちの母として受け入れ信頼を寄せていきなさいと促す言葉でした。この時からマリアはエルサレムで弟子たちと行動を共にし、彼らと共に祈り、彼らを励まし続けていったようです。その後紀元40年代初め頃にエルサレムを中心に起こったキリスト教徒への迫害の折にエルサレムを離れた弟子たちや信徒たちが多かったようですが、マリアとヨハネは小アジア(現在のトルコ共和国)に向かったと言われています。トルコのエフェソスという有名な遺跡からそう遠くない山中にヨハネとマリアが暮らしたと言われる場所があり、そこにある小さな礼拝所には今でも訪れる人が後を絶ちません。
キリスト教では、東方正教会とカトリック教会を中心に、イエスの母マリアを自分たちの霊的母として大切に崇敬する伝統が続いています。カトリックの教えを基礎においている光星学園では、イエスの愛の生き方を理想と仰ぎ、イエスのように他者の幸せのために行動できる人を育てようと願っていますが、そのためにもイエスと心身共に最も親密に過ごされた方であり、またイエスご自身から後に続く弟子たちの母となることを託されたマリアの保護に生徒たちを委ねようとしています。
マリアに親しみ、マリアに見守られ導かれながら生きることによって、マリアがわたしたちをイエスに似たものに育んでくれると信じているのです。校舎屋上の聖母マリア像や、折あるごとに奏でられる聖母マリアにささげられた賛美歌「あめのきさき」は、そのような思いの表れです。また年間行事予定表の5月末頃に記載されている『学園聖母の祝日」の意図するところもそこにあります。
マリア会創立者であるシャミナード神父も1839年に教皇庁から承認されたマリア会最初の会憲の第5条でこう記しています。「イエスはマリアからお生まれになり、マリアに養育され、地上での全生涯を通じてマリアを離れることはなかった。マリアに従い、マリアをご自分のすべての活動、すべての苦難、すべての秘儀に参与させられた。したがって、マリアに対する献身は、イエス・キリストの模倣の中でも極めて特徴的なものである。」
ところで、世界の多くの国で5月の第2日曜日を母の日として祝う習慣が広がっています。皆さん方もお母さんへの感謝やお詫びの気持ちを何かの形で伝えたかもしれませんね。また、カトリック教会では5月をイエスの母マリアを記念する月としています。そうしたことが定着していった背景はいろいろあるのでしょうが、この機会に、自分にとってのお母さんという存在について静かに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。
わたしにとっての母親は、いろいろ欠点もあったと思いますが、一言で言えばわたしの成長、健康、幸せを願い祈り続けてくれる存在であり、わたしが挫折したり行き詰まったりしたときに真っ先に思い浮かべ心の中で拠り所にしようとする存在でした。わたしの手元に1枚の写真があります。西日が差し込む夕方の教会堂の中で手にしたロザリオをつまぐりながらマリア様に祈っている母の姿が写っています。長崎のあちこちの教会を撮影するために来られていた写真家がそっと望遠で撮ったものであり、後日お礼の言葉を添えて届けてくれたものだそうです。その写真が撮られたのは、わたしが高校生になり、父や母に何かと反抗的な言動をぶつけていた頃だったようです。親子の間がギクシャクしてることを案じ、親元を離れた修道院の一角で共同生活を送る我が子の将来を心配して、農作業の合間に時間を見つけては教会の片隅で祈り続けていた母の思いがそこにはっきりと写し出されているように感じます。わたしがその写真を姉から見せてもらったのは母の死後でしたが、青年期の自分のいたらなさとそれを見守ってくれていた親の思いがいっぺんに胸にあふれてきたのを思い出します。
5月は心身のバランスが崩れやすい時期と言われることもあります。落ち込んだりしたときに自分一人でそこから抜け出そうとしてもなかなかうまくいかないことがあります。たまには、お母さんに甘えて自分をさらけ出してみるのもいいかもしれません。お母さんはあなたの一番の理解者、応援者であることが多いです。お母さんに愚痴って、泣いて、抱きしめてもらえたら、きっとそれだけで元気が湧いてくると思います。
一方で、親になるということは、子のために何かを犠牲にすることが多くなるということでもあります。特に母親になることは我が身を子のために差し出すことに他なりません。それは決して楽な道ではありません。イエスの求めに応じてわたしたちの母になることを引き受けられたイエスの母マリアが、すべての親、特に母親を支え励ましてくれますように、そして、すべての母親が子どもたちに愛を注ぎ続けていけるように、神様からの助けを祈り求めてくれますように、そう願いながら今日の宗教講話を終わります。
おはようございます。今日は暑さを感じるくらいの一日になりそうです。今年度最初の宗教講話の時間です。新入生にとっては初めての宗教講話になりますから、どんな内容なのかまだわからないでしょうし、聖書もまだ手元にない状態ではありますが、今年も宗教講話の時間では、基本的に新約聖書の中からどこかの箇所を選んでお読みした後、その箇所に関連した短い話をいたします。
聖書の言葉『マルコによる福音書』16章14~18節
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
新入生の皆さん、入学式の日から1週間が経ちましたが少しは学校に慣れましたか?その他の学年の人たちはいかがでしょう、元気に新年度を始めることができましたか?皆さんはそれぞれの願いや目的を胸に抱いて光星学園に集まってきていることと思いますが、光星での学園生活が、皆さんにとって喜びや出会いの機会となったり、皆さんの内にある夢や可能性が大きく花開く場となってくれることを願っています。
先ほどお読みした聖書の箇所は、十字架の上で息絶えて墓に葬られていたイエスが、復活して弟子たちに姿を現し、ご自身が宣教活動を通して伝えようとした人々を真の幸せに導くためのメッセージ=福音を、あなたがたもすべての人に宣教するようにと送り出している場面です。その時から今日までの2000年間、イエスの弟子たち及び弟子たちの後に続く多くの人たちが、このイエスからの宣教命令を胸に全世界に飛び出しました。
今日の宗教講話では、そのようなイエスからの呼びかけに応えようとして、1868年にフランスから28歳で来日したカトリックのパリ外国宣教会の一員であるド・ロ神父を紹介します。彼は長崎や横浜で活動しましたが、特に1914年に亡くなるまでの33年間、長崎の外海地方と呼ばれていた貧しい地区に赴任してからの活動が称賛をもって語り伝えられています。外海にある出津という集落はわたしの故郷でもあるのですが、今でも故郷では親しみをこめて“ド・ロさま”あるいは“ド・ロさん”と呼ぶ人が多いです。
彼はフランスのノルマンディー地方のヴォシュロール村の貴族の家に生まれますが、フランス革命の混乱の中多くの貴族が生命や財産を奪われるのを目の当たりにした父親は、自分たちの子がどういう困難に直面しても生き抜いていけるようにと、幼い子らにもカンナやノコなどの工具を使いこなせるように教えたそうです。汗を流すことをいとわない父親と信仰心の篤い母のもと、信仰心と慈愛の心豊かで、また工作や土木建築などの実学に深い関心を持つ青年として成長していきます。それらの才能や気質、日本に向かうに当たって親から渡された24万フランもの多額の餞別は、彼のユーモアあふれる人柄とも相まって、日本で司祭として働くようになってから、大いなる実りを産み出していきます。
彼は、日本最初となる石版印刷の技術を持ち込んで、祈祷書や宗教暦や教えの手助けとなるような絵を印刷し、布教活動に利用しました。また、それまでに身につけていた建築や土木工学の知識をもとに、現在でも大浦天主堂横にしっかり残っている国指定の重要文化財である旧ラテン神学校も建てました。このとき、彼の建築を手伝った日本人大工の中に、鉄川与助がいます。彼は、ド・ロ神父から学んだ西洋建築技術にさらに創意工夫を重ねて、後に各地に幾多の美しい教会を建てていくことになります。
また、1874年に長崎の浦上地区を赤痢や天然痘の疫病が襲った時には、信徒・非信徒の区別なく救助するために、私費を投じてヨーロッパから取り寄せた医薬品や医療機器を手に奔走しました。なお、このときたくさんの孤児が出ましたが、未婚の数名の女性信徒を励まし、孤児院を開設させました。これはたぶん日本における児童福祉施設としては、最初のものと言ってもいいのではないかと思います。
ド・ロ神父の多様な才能が余すところなく発揮されるのは、1879年から赴任することになる外海地区においてでした。この地域は、平地は少なく、土地もやせており、人々は昔からとても貧しい暮らしぶりでした。この地域の多くが小作農家で、孤児や捨子も多く、また眼前に広がる海での漁で一家の働き手を失った家族が悲惨な生活を余儀なくされているのを見て、着任早々に授産場(後に“救助院”と呼ばれる、夫に先立たれた女性や働き場のない娘たちのための作業所)と孤児院を開設しました。子どもたちは神父にとてもなついていて、司祭服にはしがみつく子どもたちの青バナがいつもこびりついていたそうです。救助院では、神父の呼びかけに応えてこの施設に集まった女性たちの多くが起居をともにしながら、孤児の世話をしたり、神父の指導のもとに畑を耕し、そこから収穫した綿花や小麦を、神父が購入した各種の機器を用いて加工し、織布、編物、そう麺、マカロニ、パン、醤油などを製造しました。こうして製造されたシーツやハンカチや下着、マカロニ、パンなどは長崎市内の居留地に住む外国人向けに、そう麺や醤油などは日本人向けに販売され、彼女たちの生活や活動の支えとなっていきました。今日でも「ド・ロさまそうめん」の名で、当時のままの製法でコシの強い麺が作られています。
自分の土地を持たない小作農家の次男、三男らのために、土地を安く分譲させてあげようと、私費を投じて買い求めた山林を先頭に立って開墾し、農耕技術の指導や新しい農作物の紹介なども行いました。あるときは希望者を募り、田平や平戸方面に土地を買い求め移住を斡旋することもしました。彼が外海の気候等を熟慮して設計し、1882年に完成した出津教会と、1893年に完成した大野教会は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素にもなっています。
彼の生き方は、イエスの愛の生き方に倣うものでしたが、彼自身もまた多くの人の生き方に影響を与えていきました。外海地方からは、2人の枢機卿を始め多くの司祭や修道女・修道士が出ているのですが、それは明らかにド・ロ神父の影響と言えるでしょう。