札幌光星中学校・札幌光星高等学校

宗教講話

2021年(令和3年)6月29日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

〇聖書の言葉 「マタイによる福音書」14章22~33節〈湖の上を歩く〉
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

〇今日のお話
 中間試験から時間がたちましたが、結果はいかがでしたか?まあまあの結果にホッとしたり、もうちょっと早くから準備すればよかったなあと少し後悔している人もいれば、もう新たな努力目標を見いだして頑張り始めている人もいるかもしれません。部活動をしている人には、大会での試合結果に満足感を覚えたり、あそこでこうしたらよかったかなと少し肩を落としたりしている人もいるかもしれませんね。今日の宗教講話は、そのような、自分にちょっぴり落胆している人、挫折感を味わっているような人たちに特に話してみたくて用意しました。

 さて、年間行事予定表の今日のところに「聖ペトロ聖パウロ使徒」という言葉が記載されています。このペトロとパウロの二人は、イエス・キリストの教えを人々に告げ知らせようと努力した最初の頃のお弟子さんたちの中で、その功績においてもまた影響の大きさにおいても、抜きんでた存在とみなされており、どちらも紀元後60年代にローマで処刑され殉教していることもあり、ローマの守護の聖人と呼ばれることもあります。今日6月29日は彼らを記念する大きな祝日になっています。
 今日の宗教講話はこの二人のうち、ペトロを取り上げて紹介してみます。ペトロは湖で漁師をして生活していた人ですが、兄弟のアンデレと一緒にイエス・キリストから、わたしについてこないかと声をかけられて弟子となり、次第に弟子たちのリーダー的な存在となっていった人物です。そして、カトリック教会の最高指導者である教皇の第1代目に当たる人物とみなされています。ペトロから数えて第266代目とされる現フランシスコ教皇は一昨年の秋に来日していますので、そのニュースを記憶している生徒もいるでしょう。その教皇が現在住んでおられるのはイタリアのローマ市内の一角にあるヴァチカン市国ですが、そこにある壮麗な聖ペトロ大聖堂は、初代教皇聖ペトロが迫害を受けて殉教した後に埋葬された墓所の上に建立されたと言われています。そういった背景もあり、ペトロは漁業に従事する人たち、あるいは教皇たちの守護の聖人とも呼ばれています。
 ともかくカトリック教会にとってはペトロは重要な存在なんですが、イエス・キリストの弟子となった最初の頃から、品行方正で誰もが認めるような知恵や徳に秀でていたのかというと、どうもそんな感じは受けません。新約聖書が彼について言及する箇所を読めば、どちらかと言えば血の気の多い、率直と言えば率直な、思ったことをすぐ口に出し行動に移すタイプの人でした。そしてそういうタイプの人にありがちですが、言ったりしたりした後から激しく後悔するみたいな人でした。
 先ほど読んだ聖書の箇所にも、湖の上を歩かれるイエスの姿に驚くと同時に、後先考えずに「わたしも歩きたいです、歩かせてください。」と口走り、一人だけ湖面に足を下ろすペトロの姿が記されています。師であるイエス様に対する信頼の気持ちが引き起こした行動ではあるんでしょうが、信頼しきれずに溺れそうになって、でもすぐに「助けてください。」とすがりつくところが、とても人間的で、わたしは好きです。
 カトリック教会ではペトロを弟子のリーダー、初代教会の礎を築いた重要な人物として尊敬し続けていますが、その一方で、ペトロ自身の立場としては触れないでいてくれたらなあと思っているかもしれないエピソードが新約聖書には他にもあります。その最たるものは、イエスが反対者たちに捉えられ死刑の宣告を受けようかという状況にあったときのことです。せっかく一番弟子としての責任感からだと思いますが、審問がなされている屋敷まで忍び込んでいきながら、近くにいた人から、「お前もあのイエスの弟子だろう?」と詰問されたときに、三度にわたり、「とんでもない。あんな人など知りません。」と否定したことです。こんなことを口走ったら、そしてそれが周囲に知られてしまったら、恥ずかしくて、もう弟子たちの中に戻れないんじゃないだろうかと、わたしなどは思うのですが。実際、すぐにペトロは自分を恥じて激しく泣いたと書かれています。でも同時に聖書は、後日、復活したイエスがペトロに姿を見せて抱きしめ、許しの言葉かけ、新しい任務を与えということも書き添えています。
 後悔したり、自分に落胆することの多いわたしたちですが、ときどき聖書の中に慰めや生きる上での励まし、道しるべを見いだすこともあります。それは多くの場合、イエスの慰めに満ちた暖かい言葉に触れてのことだろうと思います。でも、ペトロのような、挫折を経験し、どん底まで落ちた自分を助け起こしてくれる方の手にすがりつきながら、もう一度生き直してみようと再出発を決意する姿なども、わたしたちを大いに力づけてくれるように思います。
 ヴァチカンの聖ペトロ大聖堂内の右手側に、椅子に座った姿の聖ペトロの黒いブロンズ像があるのですが、その右足は、ペトロに親愛の情を込めて数多くの人たちが接吻したり、指で触れたりするものですから、つるつるにすり減っています。個人的なことになりますが、わたしの洗礼名がペトロという縁もあり、ペトロにはとても親近感を覚えます。自分が失敗したときなど、彼から勇気づけられたこともしばしばです。わたしもかつて聖ペトロ大聖堂を訪れる機会をいただいたとき、この像に触れてきました。そのとき、「おまえもがんばれよ。」と言われているような気がしたのを覚えています。

2021年(令和3年)5月25日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

○聖書の言葉:「ルカによる福音書」1章5~56節
 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」
 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」

○今日のお話し
 さて、キリスト教のカトリック教会では、自分たちが、救い主であり聖なるお方と信じているイエス・キリストのお母さんであったマリアを、聖なる方の母、聖母マリアと呼んで敬愛してきました。それは彼女を神のような存在と考えてのことではなく、あくまでもイエス・キリストこそかけがえのない尊い救い主と信じながらも、彼を私たちのために産んでくださった方として、マリアへも尊敬の念を向けてきたのです。そして、彼女のためにたくさんの祈りや讃美歌をつくり、また、彼女のすばらしさをたたえるためにたくさんの絵画や彫刻を作ってきました。
 昨年の5月の宗教講話でもイエスの母マリアを取り上げてお話ししましたが、今日も、光星学園の長い歴史の中で大切にされてきたマリアのことを取り上げてみます。
 カトリック教会にはほかの宗教と同じく宗教上の暦があり、その中ではもちろんイエス・キリストの生涯における重要な出来事を記念する日が大切にされています。たとえば彼の誕生を祝うクリスマスや、彼の十字架に張り付けられての死とその3日後の復活という出来事を祝うイースターなどです。
 と同時に、イエスの母であるマリアや、イエスを救い主と信じた弟子たちの命日なども記念されていますが、とくにマリアに関連した記念日はいくつかありますし、あるひと月を通してマリアを記念することさえしてきました。カトリック教会では5月を聖母月と呼び、イエスを生んでくださったことを感謝し、彼女と一緒にイエスを仰ぎ見、神様に祈りをささげようとしてきました。本校でもその伝統にのっとり、5月の終わりに学園聖母の日を定め休校日としています。
 ところで、なぜカトリック教会はそれほどの熱心さでマリアに敬愛の念を向けてきたのでしょうか。先ほど読んだルカによる福音書の中にも表現されていると思いますが、一つには、マリアの姿や生き方の中に、神様と人間とのかかわり方の、ある意味で手本となるようなものを感じ取ってきたからだと思います。わたしたち人間は神様の前では誰もが不完全で弱く、知らないことがいっぱいあるちっぽけな存在でしょう。マリアも神様の前にあっては自身を小さな取るに足りない召使のように自覚していたようです。そんな無力で小さな自分に神さまが何か大きな使命を託そうとしていると伝えられた時、当然ながらしり込みしそうになりながらも、最終的に彼女は神様にすべてを任せようと決断します。そうした自分の不安や心配にふるえながらも、自分を見守っているであろう神さまに信頼して一歩踏み出そうとするマリアの姿勢に、信仰心や勇気の一つのあるべき姿を感じ取り、後世の人たちは心動かされ、励まされてきたのではないでしょうか。
 もう一つ、先ほど読んだ聖書の箇所にも記されていますが、多くの人間の人生に重大な影響を及ぼす者の母になるという、自分に託された使命の重たさに舞い上がって有頂天になったり、天狗になったりせず、周りの人を支えてあげようと自分から近づいていくところにもにじみ出ている彼女のやさしさ、温かさを指摘できると思います。そこに、多くの人が慰めや希望を感じてきたのだと思います。
 聖母月にあたり、星のようにわたしたちの歩く道を照らしてくださるマリアに励まされながら、勇気を持って真理を探し求め、不正をただし、愛を実践できる人を目指していってくれることを願っています。

○お祈り
 最後に、今なお新型コロナウイルスによる困難の中にある世界中の人のために必要な助けを願って、マリアと心を合わせ神様にお祈りをささげます。

「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
いつくしみ深い神よ、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、
今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。

病に苦しむ人に必要な医療が施され、
感染の終息に向けて取り組むすべての人、
医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。

亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、
尽きることのない安らぎに満たされますように。

不安と混乱に直面しているすべての人に、
支援の手が差し伸べられますように。

希望の源である神よ、
わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、
世界のすべての人と助け合って、
この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

希望と慰めのよりどころである聖マリア、
苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。

(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)

2021年(令和3年)4月23日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

○聖書の言葉:「マタイによる福音書」18章1~4節
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょう
か」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり
言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分
を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」

○今日のお話し
 新入生の皆さん、少しは学校に慣れましたか?新入生だけではなく、クラスが変わったりして、これまでとガラッと環境が変わり、見知らぬ人と初めて同じクラスになり、緊張の中で過ごしているという人もいるかもしれませんね。
 わたしが初めて中学生になったときのことを思い起こしてみますと、地方の小さな村からから街の中にある学校に入ったこともあり、クラスのみんなが自分よりも頭が良さそうに感じ、とても気後れした気持ちでスタートしていたのを思い出します。光星中学、光星高校を第一志望として入ってきてくれた人は違うかもしれませんが、他のところに行けなくてここにきてしまったという人は、少しすっきりしない気持ちを抱いて過ごしているかもしれません。
 さて、今日の聖書の箇所は、謙虚な姿勢の大切さを教えているものとして、新しい環境で新しいスタートを切ろうとしている人たちに味わって欲しくて選びました。周りを見て、自分が他の人より優れていると感じてホッとしている人もいるでしょう。逆に、他の人に比べて自分が見劣りするように感じて沈んだ気持ちの人もいるでしょう。あまり、周囲の誰かと比較して一喜一憂しない方がいいと思います。 
全知全能の神さまの前では、人はみんな似たり寄ったりの不完全な存在です。自分が取るに足りないちっぽけな存在であり、他者に誇れるところのほとんどないものだと自覚しながら生活していくことはとても大事です。これまで自分が獲得してきた知恵や能力のほとんどは、誰かの助けを得ながら学んできたものでしょう。これからもずっと、学ばせていただくという謙虚な心構えでいたらいいと思います。

 イエス・キリストは、わたしたち人間は誰もが神さまによって命を与えられ、いろんなことを学び経験しながら、最終的には神さまのもとに帰って行くんだよと教えていました。そのような人生という旅路においては、自分一人の力だけで歩いて行けるのではなく、幼子の時はとくに、親の庇護を受けながら食べ物を手にし、知恵を身につけていきます。周りの人に支えられながら苦難や試練に対処する道を学んでいきます。
 おごらず、たかぶらず、今の自分をしっかりと見つめ、人生の意味や目的を真摯に尋ね求めながら、毎日を過ごしてくれたらと願っています。お家の方、周りの仲間、先生たちがきっとたくさんのヒントを示してくれると思います。

○お祈り
 最後に、今なお新型コロナウィルスによる困難の中にある世界中の人のために、お祈りをささげます。

「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
いつくしみ深い神よ、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、
今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。

病に苦しむ人に必要な医療が施され、
感染の終息に向けて取り組むすべての人、
医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。

亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、
尽きることのない安らぎに満たされますように。

不安と混乱に直面しているすべての人に、
支援の手が差し伸べられますように。

希望の源である神よ、
わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、
世界のすべての人と助け合って、
この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

希望と慰めのよりどころである聖マリア、
苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。

(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)