札幌光星中学校・札幌光星高等学校

宗教講話

2020年(令和2年)11月28日の宗教講話

札幌光星学園副理事長
神父 山﨑 政利

〇聖書の言葉:「ローマの信徒への手紙」8章31~39節

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。
苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

〇今日のお話
 わたしたちは、誰かが自分のことをどれほど大切に思ってくれているのだろうかと知りたいときには、どんなことを考えますか?その人の自分に向ける表情や態度を思い浮かべることもあるでしょう。どれくらいの時間を自分のために割いてくれているかということを基準にすることもあります。真剣に自分に向き合ってくれているかどうかを見る人もいます。その人がこれまで与えてくれたことや物を思い浮かべる人もいるでしょう。
 そうした人が自分のそばにいてくれることは、わたしたちを大いに勇気づけ励ましてくれます。感謝の思いが湧いてきます。さらに、その人がわたしに示してくれるあらゆることの陰で、どれほどのものを犠牲にしてくれてきたのかということに思い至るとき、感謝の気持ちは一層深まり、涙があふれだすこともあります。
 先日は勤労感謝の日でした。誰かに深い感謝の思いを伝えることができましたか?ご家庭の誰かに対してはできたかもしれませんね。でも、学校の中で掃除や用務のお仕事をしてくださっている方に対してはどうでしょう。皆さんが気持ちよく生活できるように、皆さんが汚した場所を毎日黙々ときれいにしてくださっている方がおられます。水漏れ箇所をすぐに修理してくれたり毎日早くから暖房をつけてくれたり除雪してくれたりしてくれる方がいます。クリスマスを祝う準備として寒い中イルミネーションを用意し点灯してくれたりもしています。お見かけたらどうぞ、「ありがとうございます」とお礼の気持ちを伝えてください。

 さて、先ほどお読みしたなかに、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」という言葉が出てきました。キリスト教では、神さまはわたしたち人間を愛するがゆえにマリアさまを通してイエス・キリストさまをこの世に送ってくださったと考えているのですが、そのイエス・キリストさまの誕生を祝う日であるクリスマスについては、3週間後のクリスマスの集いの折にまた触れたいと思います。
 今日はイエスさまの十字架上での死も、神さまから人間に示された深い愛のしるしとしてキリスト教が受け入れてきたということを指摘しておきたいと思います。簡単には理解しきれないかもしれませんが。
 優しさや笑顔であらわされる愛があります。自分の時間を惜しみなく差し出すことであらわされる愛があります。毎日のささやかなことの繰り返しの中で示される愛があります。自分の命まで与える愛もあります。さらには、自分と一心同体、自分の分身ともいえる大切な者をも誰かのために差し出す究極の愛もあることを聖書は述べます。
 イエスさまの誕生から死に至るまでの一瞬一瞬が、神さまのわたしたちに向けている愛の心を命を懸けて証ししようとする熱意に貫かれていたと、また、そのイエスさまの情熱を神さまご自身も同じ思いで共有されていたのだと、イエスさまの弟子たちは感じました。それが先ほどの言葉「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」という言葉に凝縮されています。多くのものに支えられているわたしのいのちの尊さを今一度再認識したいものです。

2020年11月9日 カトリック幟町教会「平和への祈り」(修学旅行)

札幌光星学園理事長
神父 市瀬 幸一

 皆さん、こんにちは。
 修学旅行が実施できて、本当にうれしいです。楽しさの中で、私たちは、「平和」をテーマに、平和公園やここカトリック幟町教会を訪れて「平和学習」をしています。

 聖書を読みましょう。「コロサイ人への手紙(3章12節~14節)」
「あなたがたは、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」

 修学旅行2日目のテーマは、「平和学習」です。みなさん、「平和」とは何ですか? ちょうど1年前の12月17日(火)の全校朝会で「平和」についてみなさんに次のような話をしましたが、覚えていますか。

 私は、毎年、6年生と校長面談をしています。今年は、すべての6年生との面談が終了しました。前生徒会長の正木君との面談の時に、彼から「先生、平和についてみんなに話してくれませんか」とリクエストがありました。
 「平和」を辞書で引くと
 ①戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。
 ②心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。「平和な暮らし」
と書いています。
 私は、戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。人間としての暮らしができること・・・・ここに一番気持ちが行きました。
 人間としての暮らしができない人たちのために尽くした方がいました。アフガニスタンで銃撃され、亡くなられた医師の中村哲さんです。中村医師は、アフガニスタンの人たちが、人間としての暮らしができる支援をしていました。しかし、帰らぬ人になりました。中村哲さんは、「戦争」ではなく、「平和」の大切さを私たちに知らせてくれました。

 「平和な暮らし」について

 教皇フランシスコは、就任依頼、折に触れて核兵器廃絶と平和について発言してこられました。昨年の今頃、ここ広島でも述べました。
 皆さんが、午前中に訪れた、広島平和記念公園で開かれた「平和のための集い」での演説では、「ここで大勢の人が一瞬のうちに炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残った。全てが破壊と死というブラックホールに飲み込まれた」と、原爆の悲惨さを強調されました。戦争目的での原子力使用を「犯罪以外の何ものでもなく、倫理に反する」と強く非難し、「強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるか」と問いかけ、真の平和とは「非武装の平和以外にありえない」と訴えられました。

 2017年(平成29年)3月23日に、教皇は国連総会に次のようなメッセージを送られました。テロ、軍事力の差のある者同士の紛争、情報の安全確保、環境の問題、貧困などは、複雑に絡み合って、現代世界の平和と安全を脅かしています。しかし核の脅威は、そのような課題に効果的に応えることはできません。恐怖に基づく安定は、実際には恐怖をさらに増し、諸国民の信頼関係を損なうだけです。もしそうなら、その安定をどれだけ維持できるか自問すべきです。「国際平和と安定は、互いの破壊または全滅の脅威とか、単なる力の均衡の維持といった誤った安心感の上に成り立ちえません。
 そして、このたび核兵器禁止条約が発効される運びとなりました。核兵器禁止条約は核兵器を禁止する国際条約で、略称・通称は核禁止条約、核禁条約、核廃絶条約などと呼ばれています。この条約は1996年4月に国連に起草され、2017年7月7日に国連総会で賛成多数にて採択され、今年、2020年10月に発効に必要な50ヵ国の批准に達したため、2021年1月22日に発効予定となりました。

 繰り返します。そこで、「平和」を辞書で引くと、
 ①戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。
 ②心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。「平和な暮らし」
と書いていますが、「平和(平和な状態)」とは、具体的には次の9つを指すのです。 

 ①正義が通じる世界であること。
 ②人間の全人的発展、=「すべての人の全人的発展」とは、
 a.国民の間に経済格差や排除がないこと
 b.社会が誰一人排除されず、誰もが参加できる開かれたものであること
 c.人間の成長発展に無くてはならない経済、文化、家庭生活、宗教などが保障されること
 d.個人が自由であると同時に共同体の一員であること
 e.一人ひとりに神が現存されること
 などを意味します。平和は、この「すべての人の全人的な発展の実り」としてうまれるのです。
 ③基本的人権の尊重
 ④被造物の保護、環境が破壊されてはならない
 ⑤すべての人の社会生活への参加、排除や差別のない社会
 ⑥諸国民の信頼
 ⑦平和を重んじる制度の促進、国際社会との連携
 ⑧教育と福祉の恩恵に欲すること
 ⑨対話と連携の上に築かれるもの

 ここで、平和を願い、一緒にお祈りを致しましょう。


 アシジの聖フランシスコの「平和を願う祈り」 

 神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
 憎しみのあるところに、愛を
 いさかいのあるところに、ゆるしを
 分裂のあるところに、一致を
 迷いのあるところに、信仰を
 誤りのあるところに、真理を
 絶望のあるところに、希望を
 悲しみのあるところに、喜びを
 闇のあるところに、光をもたらすことができますように。

 神よ、わたしに、
 慰められるよりも、慰めることを、
 理解されることよりも、理解することを、
 愛されるよりも、愛することを
 望ませてください。

 自分を捨てて初めて自分を見いだし、
 ゆるしてこそゆるされ、
 死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを
 深く悟らせてください。

2020年(令和2年)10月31日の慰霊ミサ説教

札幌光星学園理事長
神父 市瀬 幸一

 皆さんおはようございます。
 明日、11月1日は学園の創立記念日です。今年は、一日早い、今日を創立記念日、慰霊ミサの日としました。これから学園にかかわりのある亡くなられた方々の魂の安息のために御ミサを捧げ、皆さんと共に安息をお祈りいたしましょう。
 
 さて、学校の創立について、みなさんが持っている「生徒手帳」の中に、札幌光星学園沿革概要というページがあります。そこに「本学園は、昭和9年(1934)の4月、カトリック教会の札幌教区長であった、ドイツ人ヴェンセスラウス・キノルド司教によって創立されたものである。」と書いてあります。
 キノルド司教は、1871年(明治4年)7月7日生まれのドイツ人の神父です。
 キノルド司教は、1911年(明治44年1月)、雪の降りしきる札幌の地に降り立ちました。この時から福祉事業・教育事業を切望されていました。そして、この年には、天使病院を設立して社会福祉にも力を注いでいました。また、1916年(大正5年)にローマへ行ったとき、時の教皇ピオ11世に謁見し、学校創立の計画を申し上げ、教皇から激励の言葉をいただき、それで一層の学校設立への決意を固められたそうです。その足でおりしも第一次世界大戦で敗戦したドイツにも立ち寄り、貧しい人たちの尊い犠牲による寄付金を得て日本へ戻ってきました。このお金を資金として翌年1917年(大正6年)に現在のこの土地を購入し、男子の中学校を設立する機会を待っていました。
 1924年(大正13年)に藤学園を創立し、フランシスコ会の神父でしたが、1929年(昭和4年)に北海道地区の責任者として司教になりました。司教になった後、機が熟したとの思いから、1931年(昭和6年)、当初計画していた中学校設立の申請をしました。しかし、中学校設立が外国人の立案であることが知れると、社会から強い反対が起こり苦難を極めましたが、キノルド司教をはじめ熱意ある人々の努力によって、改めて商業学校として文部省へ申請し、1933年(昭和8年)甲種実業学校として札幌光星商業学校の設立が認可されました。こうして、ようやく光星が誕生することになったのです。
 
 キノルド司教は、社会から強い反対が起こったときの様子をこのように語っています。

 1931年(昭和6年)12月、書類を整えて学校設立の認可を市役所へ申請しました。ここに至るまでには当時、市の学務課長の並々ならぬご好意があって、当時の市長も「市の北部(今の東区)には中学校がないのだから、是非建てて貰いたい」といって励ましてくれた。そして、来年1月までにはこの書類を道庁に送るからと口約束されたので、私(キノルド司教)も大いに勇気を得て学校建築の材料購入や運搬を始めました。
 それから数ヵ月後、道庁の役人が来訪し、「書類はまだあのまま東京に送らないでいますよ」と言われてしまった。そこで、私(キノルド司教)は、事の意外に驚いて道庁へ行き、 部長に会って手続きを進捗させてくれるように懇請しました。部長はただ当惑した面持ちで何とも答えてくれませんでした。その後、再三部長を訪れて督促しましたところ、部長も私の窮境に同情して、「小樽高商の井上紫電教授にお頼みなさい。この人はカトリック信者であり、又私の親友です」と教えてくれました。
 市長が快諾を与え、学務課長の熱心なる支持まであって着手された創立手続きが、ここに至って急転して不可解な状態に立ち至ったことは、必ず何か裏面の運動があってのことであろうと誰しもが考えられる所です。私は、井上教授に依頼してことの真相を探っていただいたところ、中学校が出来ると困るという私的利害感情から、当時道庁に支配権を握っていた某政党を動かし、佐上信一長官に迫って申請の却下を強要した結果だと判明しました。私どもは事の重大なるに一旦は途方にくれましたが、鳩首善後策を協議しました。「ともかく学校を誕生させることが急務であり、先ず、商業学校として設立しましょう。そして、後日、機を見て中学校に転換させることにしたら良かろう」と井上教授が知恵を貸してくだしました。万策尽きた時であり、ここで挫折すれば永遠に機を逸する恐れがあるので、不本意ながら井上教授の策を入れて商業学校を創立することに決めたのである。
 そうなると更に別の書類が必要になり、取り急ぎその作成にかかる一方で、学務課長に話したら、課長は非常に好意を持って迎えてくれ「至急書類を提出しなさい。それも直接私の手許に持参し、絶対他人には口外しないように」と親切に教えてくれました。ところが提出して3週間目というのに早くも電報で文部省の認可が届きました。驚くやら、喜ぶやら、本当にこの時の感激は生涯忘れることは出来ません。
 数日後に官報にも掲載されたのですが、それを見て驚き怒ったのは光星の誕生を阻止せんと躍起になっていた人たちでした。いきり立って佐上信一長官を道庁に訪れ、詰め寄ったそうです。しかし佐上長官は「私は中学校としては創立させないと約束したが、商業学校としての創立申請を却下する約束をした覚えはない」と答えたそうです。
 このような経過をたどって1933年(昭和8年)7月 光星商業学校設立の許可を受けました。8月には 校舎建築の認可を受け、財団法人光星商業学校と登記した。
1934年(昭和9年)4月 第1回入学式が行われた。クラス数3、生徒数160名であった。

 このように記録されています。

 キノルド司教は、1952年(昭和27年)5月22日に80歳で亡くなられました。
 私たちの光星学園は、多くの方々のおかげで危機を脱してこの世に生まれ、現在があるのです。創立86年目を迎え、同窓生も30,000人を超えました。創立記念日にあたり、キノルド司教の苦労に思いを馳せ、私達の学園の歴史にも興味を持って欲しいと思います。

 また、慰霊ミサもあわせて行なっています。皆さんに関係ある方々、親族・友人、知人などが、神様のもとに、天国で安らかでありますようにお祈りすると共に、亡くなられた学園関係者のためにも静かにお祈りしましょう。
 身近な人が亡くなったとき、私たちは、姿は見えなくなっても、どこかにいるような気がします。キリストは「私の父の御心は、子を見て信じるものが皆、永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」と言います。つまり、どこかにいるような「気がする」だけではなく、人は死を越えて生きると保証します。いつの日か会えることを願って祈りを続けましょう。

2020年(令和2年)10月20日の宗教講話

札幌光星学園副理事長
神父 山﨑 政利

〇聖書の言葉:「コヘレトの言葉」3章1~8、11節

天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒すのに時がある。
壊すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げるのに時があり、拾うのに時がある。
抱くのに時があり、抱くのをやめるのに時がある。
探すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙るのに時があり、語るのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦争の時があり、和解の時がある。

神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。

〇今日のお話
 わたしたちは、日々いろいろの出会いや別れを経験し、誰かの誕生や死と出会います。思いがけない困難にぶつかって苦労したり予想もしていなかった手助けを得て安堵したりすることがあります。なぜ今こうしたことが起こっているのだろうかと、問いかけたいこともあります。先ほどの「コヘレトの言葉」では、わたしたち人間にはすぐに受け入れにくいことでも、神さまのご計画の中では意味があることなんだよと教えています。
 先月の宗教講話では、敬老の日が近かったこともあり、老いることとか高齢者のことを取り上げてみました。ところで、わたしたちは生まれてこの方様々な時をすごしてきましたし、これからも同様にいろいろの経験を重ねながら生きていくのでしょう。ここにいる多くの人は中学から高校という時期を過ごしています。わたしから見ると、若さとエネルギーにあふれ、いろんな仲間と切磋琢磨しながら、自分を成長させ、入試に代表されるような試練を乗り越えようと頑張っています。
 今日は、そのような青年期という時について話してみます。
 先日、高校生は芸術鑑賞の日に、古典芸能の一つである狂言を鑑賞したと聞きました。この狂言というものは本来、能などと一緒に演じられ能楽という伝統芸術を構成するものだとされています。その能楽の発展に偉大な足跡を残した人として、室町時代の観阿弥・世阿弥の親子の名前がよく知られています。とくに、世阿弥は多くの演目(謡曲)を作り、また見事に演じました。そして芸術論とも呼べる著作も残しており、その一つに『風姿花伝』と呼ばれるものがあります。この書は、能というものを習得し、演技の技術を磨いていくために、どういう努力工夫が必要なのか述べています。
 この『風姿花伝』では第一章で、人生を7つの段階に分け、それぞれの年代の特徴やそれに応じた稽古の仕方を示しています。今日はそれを紹介してみます。
①幼年期(7歳頃) まず最初に…
 能では、7歳ごろから稽古を始めるが、この年頃の稽古は、自然にやることの中に風情があるので、稽古でも自然に出てくるものを尊重して、子どもの心の赴むくままにさせたほうが良い。大人たちから見て当然物足りないことばかりだけど、それはダメ、これは悪いとか、大人の枠にあてはめようと、厳しく怒ったりすると、やる気をなくしてしまうよ、と説いています。
②少年前期(12〜13歳より) 続いて…
 12〜13歳の少年は、その姿といい、声といい、キラキラと輝き、生命力にあふれ、それだけで幽玄(品があり、優美な様子)を体現して美しいと、世阿弥はこの年代の少年に最大級の賛辞を贈ります。しかし、それはその年齢にだけ一瞬に見られる「時分の花」としてのあでやかさであり、鍛錬によって磨かれた本当の美しさには至っていないんだよ。だから、どんなにその時が良いからといって、生涯のことがそこで決まるわけではない、とも警告しています。要するに、少年期の華やかな美しさに惑わされることなく、しっかり稽古し精進しなさいと説きます。
③少年後期(17〜18歳より) さらに…
 この時期を世阿弥は、人生で最初の難関がやってくる頃と言っています。「まず声変わりぬれば、第一の花失せたり」と指摘します。能では、少年前期の声や姿に花があるとしていますが、声変わりという身体上の大きな変化が加わり、その愛らしさがなくなるこの時期は、第一の難関なのです。こんな逆境をどう生きたらいいのか。世阿弥は、「たとえ人が笑おうとも、そんなことは気にせず、自分の限界の中でムリをせずに声を出して稽古せよ」と説いています。周りから称賛され、本人も才能があると思っていたことが、身体の発育というどうしようもないことにぶつかり絶望する。しかし、そういう時こそが、人生の境目であり、諦めずに努力する姿勢が後に生きてくるのだと、諭します。限界のうちで進歩がない時には、じっと耐えることが必要であり、そこで絶望したり、諦めたりしてしまえば、結局は自分の限界を超えることができなくなる。無理せず稽古を続けることが、次の飛躍へと続くのだと励ましています。

 この後、24~25歳の青年期、34~35歳の壮年期前期、44~45歳の壮年期後期、50歳以上の老年期と触れていくのですが、それは割愛します。世阿弥が言いたいことは、人生は、何らかを失う、衰えていく歩みに見える。たとえば、少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消えていく。何かを失いながら人は、その人生を辿っていきます。しかし、同時に人生の歩みは、何かを失うと同時に、何か新しいものを得るための試練の時でもあるということです。ピンチの時は一方でチャンスの時ともなる。今だから手にできるものを大事にしながらも、次のステージを意識して自分を備えていく、目まぐるしく移り変わるものに囲まれながらも、大切なものをずっと胸に秘めて追及していく、そんな皆さんの歩みを、神様が祝福してくださいますように祈りながら、今日の宗教講話を終わります。


〇今日のお話の続き
④青年期(24〜25歳の頃)
 この頃には、声変わりも終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見えます。人々に誉めそやされ、時代の名人を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえある。新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされるのです。そんな時に、本当に名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかのように思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、切り捨てています。「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」(新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付かず、いい気になっていることほど、おろかなことはない。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならない。)自分を「まことの花」とするための準備は、「時分の花」が咲き誇っているうちにこそ、必要なのです。
⑤壮年前期(34〜35歳の頃)
 この年頃は、ちょうど世阿弥が風姿花伝を著した時期と重なります。世阿弥は、この年頃で天下の評判をとらなければ、「まことの花」とは言えないと言っています。「上がるは三十四、五までのころ、下がるは四十以来なり」上手になるのは、34〜35歳までである。40を過ぎれば、ただ落ちていくのみである。だから、この年頃に、これまでの人生を振り返り、今後の進むべき道を考えることが必要なのだというのです。34〜35歳は、自分の生き方、行く末を見極める時期なのです。
⑥壮年後期(44〜45歳の頃)
 「よそ目の花も失するなり」この時期についてのべた世阿弥のことばです。どんなに頂点を極めた者でも衰えが見え始め、観客には「花」があるように見えなくなってくる。この時期でも、まだ花が失せないとしたら、それこそが「まことの花」であるが、そうだとしても、この時期は、あまり難しいことをせず、自分の得意とすることをすべきだ、と世阿弥は説きます。この時期、一番しておかなければならないこととして世阿弥が挙げているのは、後継者の育成です。自分が、体力も気力もまだまだと思えるこの時期こそ、自分の芸を次代に伝える最適な時期だというのです。世阿弥は、「ワキのシテに花をもたせて、自分は少な少なに舞台をつとめよ」ということばを残しています。後継者に花をもたせ、自分は一歩退いて舞台をつとめよ、との意で、「我が身を知る心、得たる人の心なるべし」(自分の身を知り、限界を知る人こそ、名人といえる)と説くのです。
⑦老年期(50歳以上)
 能役者の人生最後の段階として、50歳以上の能役者について語っています。『風姿花伝』を書いた時、世阿弥は36〜37歳だったので、この部分は、自分の父である観阿弥のことを思い、書いていると言われています。「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」(もう花も失せた50過ぎの能役者は、何もしないというほかに方法はないのだ。それが老人の心得だ。それでも、本当に優れた役者であれば、そこに花が残るもの。)この文章に続けて世阿弥は、観阿弥の逝去する直前の能について語っています。観阿弥は、死の15日前に、駿河の浅間神社(せんげんじんじゃ)で、奉納の能を舞いました。「その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり」「能は、枝葉も少なく、老木(おいき)になるまで、花は散らで残りしなり」観阿弥の舞は、あまり動かず、控えめな舞なのに、そこにこれまでの芸が残花となって表われたといいます。これこそが、世阿弥が考えた「芸術の完成」だったのです。老いても、その老木に花が咲く。それが世阿弥の理想の能だったのです。

 世阿弥が説く7段階の人生は、何らかを失う、衰えの7つの段階であるともいえます。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。何かを失いながら人は、その人生を辿っていきます。しかし、このプロセスは、失うと同時に、何か新しいものを得る試練の時、つまり初心の時なのです。「初心忘るべからず」とは、後継者に対し、一生を通じて前向きにチャレンジし続けろ、という世阿弥の願いのことばだといえるかもしれません。

2020年(令和2年)9月18日の宗教講話

札幌光星学園副理事長
神父 山﨑 政利

〇聖書の言葉:テトスへの手紙2章1~8節
「あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。」

〇今日のお話
 来週月曜日が敬老の日に当たっているので、皆さんのように若い人にはピンとこないかもしれませんが、今回は高齢者のこと、老いについて話します。
 旧約聖書の中で、神がモーセという指導者を通してイスラエル人たちに与えたとされる“十戒”と呼ばれた掟が、その時代やそれ以降の時代のユダヤ人たちにとても大切にされていたということを、宗教の時間に耳にしたこともあるでしょう。“十戒”を見てみると、神に対してどういう心構えでいるべきか、人間に対してはどういう態度をとるべきかが示されています。十戒のはじめの3つは神に対する人間の在り方を定める戒めであり、残りの7つは人間同士の在り方についての戒めとなっています。そして、人間同士を規定する最初の戒めは「父母を敬え」となっています。つまり、人間の最初の共同体である家庭、いのちの源である両親への感謝と敬意が、5番目の「人を殺してはならない」よりも重んじられ大切な戒めとなっています。授かったいのちへの感謝、父母への敬意があれば、殺人が禁じられていくのは当然の帰結となるということでしょう。
 そのため、旧約聖書には、「あなたを生んだ父のいうことを聞き、年老いた母を軽んじてはならない」(箴言23:22)とか、「父を見捨てる者は、神を冒涜する者、同じく母を怒らせる者は、主にのろわれている者」(シラ3:16)など、年老いた両親への敬意について書かれている箇所が多く見られます。また、高齢者の役割については、「老人たちの話を聞き逃すな。彼らも、その先祖たちから学んだのだ。そうすれば、そこから知識を学び、必要なときに答えることができる」(シラ8:9)、「老いた者には知恵があり、いのちの長い者には悟りがある」(ヨブ記12:12)など、経験を積んだ高齢者への敬意がしばしば記されています。
   
 新約聖書には、旧約聖書に見られるほどには高齢者に言及することは多くありません。しかし、有名な「姦通の女」(ヨハネ8:3~ 10)の場面で、姦通の現場で捕らえられた女を責めたてる民衆に対して、イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と発言されますが、その意味を誰よりも先に理解した「年長者」から順に、自らを恥じるかのように立ち去った、とあり、ここでも年長者は経験と知恵を持つ者として描かれています。
 先ほど読んだテトスへの手紙は、パウロが協力者テトスに書き送ったものです。その中にも、年老いた者の言動が若者を教え導く力をもつこと、共同体の根っこにあたる存在として、若者の成長を支え導く大切な役目を担っていることが述べられています。

 日本は現在、世界で最も高齢化率の高い国になっています。高齢化率とは、総人口に対する65歳以上の人の割合を示す数値ですが、2019年度の総務省の発表によると、前年比32万人増の3588万人となり、総人口12617万人に占める割合が28.4%にのぼっています。今後もこうした「超高齢化社会」の傾向が強まると言われています。
 そんな中、高齢者の起こした事件や事故のニュースが多くなりましたが、高齢者の自殺も増えているようです。警察庁のデータ(2016年)によれば、自殺者のうち70代以上が23.9%、60代を含めると自殺者の約4割を占めています。また、高齢者の自殺は一人世帯ではなく、同居家族がいる場合がほとんどだそうで、単身生活での自殺は全体の5%以下だという驚くべきデータもあります。家族というもっとも小さな共同体の中にありながら、残念ながら、高齢者の方が老いへの不安や孤独、閉塞感、居場所のなさが感じておられるとしたら、悲しいことです。

 昨年秋に日本を訪問してくださったフランシスコ教皇は、高齢者に関してどんなことを発言しておられるのでしょうか。現代社会は高齢者を省みないものとなってしまったと言われることが多いですが、教皇は多くの文書のなかで、その原因が、「利益中心の」「使い捨て文化」にあると話します。「利益だけを求める文化は執拗に、高齢者を『お荷物』であるかのごとく重荷に見せようとします。こうした文化は、高齢者は何も生み出さないだけではなく、経済的精神的負担だと考えます。そう考えるとどうなるでしょう。高齢者は否定されます。高齢者が切り捨てられる様子を見るのは実に悲しいことです。それは冷酷なことであり、罪です」と。先ほどみたような、聖書で語られているある種の理想に対して、現代社会における「使い捨て文化」では社会の「今」だけの「利益」のみが評価され、かつての文化を担った者への敬意が否定されていると、フランシスコは危機感を示しています。そしてこのような高齢者の切り捨ては「冷酷なことであり、罪」であるとさえ発言しています。高齢者は、社会全体にとって、わたしたち大勢の知恵を守ってきた人々であるはずです。高齢者はわたしたち民衆の知恵の宝庫です。
 お年寄りの存在はわたしたちを助けてくれます。多くの場合、孫に優れた価値観を確実に伝えるのは祖父母であり、多くの人が、自分が人生の歩みの中で学んだいくつものことを祖父母から授けられたと感じています。高齢者のその言葉、かわいがってくれたこと、あるいは、そこにいてくれるだけでも、子どもたちや若者たちに、自分とともに歴史が始まるのではなく、自分は長い道のりの継承者であり、自分に先立つ背景に敬意を示す必要があると気づかせてくれます。
 教皇はまた語ります。「家庭における『歴史の記憶の欠如』こそが、『わたしたちの社会の大きな欠点』です。今だけに目を向けた、自己中心的な歴史の『不連続』の中では、家庭の根を張ることができなくなり、家族として同じ『道のり』を歩んでいるという未来への連続性を失ってしまいます。このつながりの感覚を回復することが、『使い捨て文化』へ対抗する道のりとなるのであり、そのためにはまずお年寄りを共同体から排除するのではなく、共同体のなかに受け入れる必要があります。お年寄りは共同体にとっても社会にとっても民族の記憶の根幹として、無くてはならない存在だからです。」

 祖父母、お年寄りのことを思い起こし、「お元気?」と声をかけてくれる人が出てくれることを願っています。


 「最上のわざ」

 この世の最上のわざは何?

 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
 しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、
 従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

 若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
 人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
 弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

 老いの重荷は神の賜物。
 古びた心に、これで最後のみがきをかける。
 まことのふるさとへ行くために。

 おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、
 真にえらい仕事。
 こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。

 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
 それは祈りだ。
 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
 愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
 「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と。

   
 解 説
 上智大学学長も務めたヘルマン・ホイヴェルス神父(1890-1977)が、ドイツに帰国後、
 南ドイツの友人から贈られた詩。
 出典:『人生の秋に』ヘルマン・ホイヴェルス(林幹雄 編)、(春秋社、1969年)より

2020年(令和2年)8月24日の宗教講話

札幌光星学園副理事長校長
神父 山﨑 政利

〇聖書の言葉・・・ルカによる福音書15章11~24節

「また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」

〇今日のお話
 今読んだ箇所は「放蕩息子のたとえ」と呼ばれ、新約聖書の中に収められているイエスが語ったたとえ話の中で、「善いサマリア人のたとえ」と並んでよく知られたものです。どちらもルカによる福音書の中に出てきますので、興味がある人は探してみてください。さて、この「放蕩息子のたとえ」は、一般的には神さまの愛やゆるしの深さが、人間の想像や予測を越えていて、限りのないことを教えているものだと解説されます。しかし、今回の宗教講話ではそういう観点からではなく、そのままストレートに親と子の物語として取り上げてみましょう。
わたしたちは、身近な人たちに見守られ、支えてもらいながら成長していきます。幼い頃は親とか守ってくれる人から離れたがりません。でも、自立していく過程で、大人たちの干渉をうるさがる場面も出てきます。思春期や青年期と言われる年齢になると、自立心・独立心が大きくなっていきます。変化を求め、新しいものへ挑戦したい思いが湧いてきます。それは、多かれ少なかれ誰においても芽生えてくるものだと思います。
 先ほどの「放蕩息子のたとえ」に出てきた年下の息子も、親兄弟との一緒の生活をうっとうしく感じたのでしょうか、親の庇護を息苦しく感じるようになったのでしょうか、親の元から出て、遠い国に行きたいという望みが抑えられなくなります。自分の意向を父親に伝えます。父親は息子の言うとおりにしてあげます。このときの父親の気持ちは何も語られていません。
 ところが、彼の独立心は、いざ親たちから離れて誘惑の多い街での生活に入ってみると、無鉄砲な後先考えない放蕩三昧やけじめのない奔放な生活へと変わっていきます。あっという間に無一文になり、寝る場所にも食べる物にも事欠く困窮状態に陥ります。誰も親身になって助けてくれません。
 どん底まで落ち込んで命の危機に立ち至ったそのとき、“我に返って”彼は故郷の家と親の存在を思い起こします。かつて親の愛の中で食べ物にも寝床にも着るものにも不自由なかった生活。それなのに、後ろ足で砂をかけるようにしてその家を飛び出してきた自分が、今はボロをまとい、垢に汚れて、餓え渇いている。おそらく、後悔の念と親に対する申し訳ない思い、自分の思慮に欠けた決断を恥じ入る気持ちなどの中で、彼は必死に考えます。生き抜くために、再出発をするためにどうすればいいのかと。そして、家に帰ろうと決意します。ただし、息子として胸を張っての晴れがましい帰還としてではなく、恐る恐る父親の許しを請い従業員の一人として雇ってもらうために。ところが、息子がまだ遠くにポツンと見えた時から、それと気がついた父親が走り寄って息子を抱きしめたと書いてあります。この描写だけで、父親がどういう思いで末の息子が不在となってからの長い時間を過ごしていたか、よく表現されていると思います。息子がたとえ故郷の家や親のことを忘れているときでも、親は一瞬たりとも彼を忘れず、無事を願い続け、帰りを待ちわびていたのでしょう。父親のこの願い、愛が、遠く離れた息子に伝わり、土壇場で我に返らせてくれたとも言えます。
 わたしたちは挫折することがあります。大きな痛手を受けることもあります。そんなときでも、わたしたちのために祈り続けてくれる誰かの思いが、とりわけ親の愛が支えてくれている。そして、わたしたちの再挑戦を、変わろうとする意欲を後押ししてくれる。そんな希望を抱かせてくれる物語だと思いました。皆さんにとっての支えとなってくださる方を思い起こし、そこから新たな力を汲み取ってくれたらなあ、そして、皆さんも誰かを祈りつつ見守り続けていける、そんな人に成長していってほしいなあ、と願っています。