ウクライナでの戦争の終結と平和の実現を願って
2022年2月24日、ロシア軍がウクライナ国に軍事侵攻を開始してから1週間が経過しました。すでに、両軍兵士だけでなく、ウクライナ国内の幼い子供たちを含む民間人にも死傷者が出ており、日を追うごとにその数が増えています。チェルノブイリ原子力発電所もロシア軍に制圧されました。第2の都市ハリコフや首都キエフへの攻撃も激しさを増しています。多くの方が難民となって国外に避難し、ウクライナ全土で普通の生活が奪われています。
一昨日の国連総会の緊急特別会合で、ウクライナに侵攻したロシアを非難し、ロシア軍の即刻撤退を求める決議案に対し、193か国の加盟国のうち141か国が賛成しました。
国際世論が戦争反対の姿勢を明確に打ち出している一方で、ロシアはまだ攻撃の手を緩めておらず、ウクライナの多くのいのちが危険にさらされている状況は変わっていません。
カトリック教会の教皇フランシスコは、ロシア軍による侵攻が開始される前日の2月23日バチカンでの一般謁見の場で次のように話されました。
「ウクライナにおける情勢の悪化のために心に深い悲しみを抱えています。ここ数週間の外交努力にも関わらず、その状況はいっそう危機的な展開を見せています。わたしと同じように、世界中の多くの人々が苦悩と不安を感じています。皆の平和が再び一部の人々の利害のために脅威にさらされています。
神の前で真剣に良心を問いただすよう、政治責任を負う人々に呼びかけたいと思います。神は平和の神であって、戦争の神ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とするのは兄弟であり、敵ではありません。国家間の共存を破壊し、国際法を軽んじながら、人々の苦しみを増すようなあらゆる行動を控えるよう、関係するすべて当事者たちにお願いします。
ここで、信者の皆さん、そうでない皆さん、すべての人に呼びかけます。暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました。来る3月2日、「灰の水曜日」を、平和のための断食の日とするよう皆さんにお願いいたします。特に信者の皆さんが、その日を祈りと断食に熱心に捧げるよう励ましたいと思います。平和の元后マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように。」
光星学園に学ぶ皆さんには頭の優秀さを競うだけでなく、世の中の不正義や人々の痛みに敏感な人となり、悲しんでいる人や助けを求めている人に手を差し伸べることのできる人になってほしいと常々願っております。皆さんも、まずは全世界の人々の切なる願いに心を合わせて、ウクライナでの戦争の速やかな停止と平和の実現、亡くなった方々の魂の安息と傷ついた人々の回復、破壊された国土の復興のために、祈ろうではありませんか。
かつて、聖母マリアは、我が子イエスを十字架にかけて殺害した人々が周囲にたくさん住んでいたエルサレムの街で、神様からの癒しと助けが与えられるようにと願って、イエスの弟子たちと共に、イエスが教えてくれた『主の祈り』を唱えておられました。
わたしたちもマリアに倣い、一緒に『主の祈り』を唱えましょう。わたしたちが、暴力の連鎖を断ち切り、互いの違いを認め合い、許し合うことによって、平和な社会を作りだしていけますように、またそのために、今わたしたちができうることを実践していく勇気をもつことができますように。
〇聖書の言葉 「ヨハネによる福音書2章1~11節〈カナの婚礼〉
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
②今日のお話
皆さん、こんにちは。年があらたまってから湿ったドカ雪が積もったこともあり、道路状況があまりよくないようです。通勤通学にご苦労されているのではないでしょうか。どうぞ、コロナだけでなく、足もとにも用心してください。
さて、年間行事予定表の今日1月22日のところには、≪シャミナード・デー≫と記されています。これは、この光星学園の運営に携わっているカトリックの男子修道会である「マリア会」を創立された、フランス人のシャミナード神父様が1850年の今日89歳で亡くなられており、今日が彼の命日であることを示しています。
シャミナード神父がどのような人物だったか、最初に簡単にご紹介します。彼は、ちょうどフランス革命がおこる直前にカトリックの神父になり、フランス革命の大混乱の中で、教会などの宗教施設が没収され、神父や修道士たちの宗教活動が大きな制限を受ける中で、自らの命の危険もかえりみず、信仰を守り抜き、信徒たちを励まし続け、フランスの未来を信じ、仲間とともに若者たちへの教育に
全力を傾けた人でした。
今日の宗教講話では、彼の信仰心篤い生き方や、いろんな困難にぶつかっても絶望せず、神様からの助けに信頼して、前向きに生きようとする熱い生き方、多くの若者を惹きつけてやまなかった誠実な人間性、などの土台になっていた彼の心の在りようが、どのようにして育まれていったのかということについてお話します。
中学1年生や4年生には、宗教科からの課題として、この冬休み中に『福者ギョーム・ヨゼフ・シャミナード神父』という本を読み、感想文を提出することが求められたかと思います。わたしもまたあらためて読んでみました。そうすると、彼が幼い時から、その生涯を終えるときまで、この宇宙の創造主としての神様の存在を固く信じていたこと、イエス・キリスト様をその神様から遣わされた救い主として固く信じていたことがうかがい知れます。どんな困難にぶつかっても、創造主である神様、救い主であるイエス・キリスト様への信頼を失うことはなかったようです。と同時に、イエス様のお母さんであったマリア様への親愛の情も幼少のころから芽生え、終生薄れることはなかったようです。
そうした信仰心や崇敬の念は、赤ん坊のころから信仰心篤かった母親に連れられて教会に通い、母親の膝の上で、母の口から唱えられる祈りや歌われた讃美歌を聞き、それを真似ていく中でいつしか身についていったものだったようです。とくに、イエスの母であるマリア様への深い信頼の念は母親譲りだったと言われます。
どれほど悩ましい困難に直面しても神様への信頼を保ち続けたマリアの強い信仰、助けを求めている人々への配慮を失わなかったマリアのやさしさ、イエスの母であるだけでなくイエスについていこうとする者たちの傍にいてこれを励まし、神様からの助けをとりなしてくださるマリアの母性的な愛などなど、幼いシャミナード神父様に向かって母親の口から繰り返し語られたこうしたマリア様についての話は、シャミナード神父が成長していく中で、いつも心の拠り所になっていたものでした。ちなみに、先ほど読んだ「カナでの婚礼」の箇所は、マリア様の周囲への気配りとイエス様へのゆるぎない信頼が生き生きと描かれた、シャミナード神父様もとても大切にしていたところです。
また、彼は毎日朝に夕に、母親から教わったマリア様への祈り「アヴェ・マリアの祈り」を欠かしませんでした。成長して後も、何かの課題に取り組むときは必ずマリア様への祈りを忘れず、マリア様と一緒に、マリア様を通して、神様からの祝福や導き、助けを願い求めました。また、シャミナード神父は自分の起こした修道会にマリア様の名をつけるほどにマリア様を尊敬し大切にしていました。そして、メンバーに「マリア様に信頼して、神様へのとりなしを願うなら、これほど力強い支えはないよ。」と教え続けました。
皆さんもいつか結婚されるだろうと思います。そしてお子様に恵まれるかもしれません。その子供さんたちに愛情をいっぱい注ぎ、生きていくのに必要なものを与えようと全力を尽くすと思います。そんなときに、このシャミナード神父とお母さんの話を思い出してくれる人が一人でもいてくれたらうれしいです。わたしたちは、大切な人に、その人の生涯にわたって支えとなり、助けとなるような生き方、信仰心、祈る心などを育んであげることができたら、それもすばらしい贈り物といえるのではないでしょうか。自分が大切だと思うことを次の世代に伝えていくことを遠慮しがちな人が多いように感じますが、トライする価値は大いにあると、私自身も親から教わったあれこれを思い返しながら確信しています。
最後に、中学1年生が書いてくれた感想文の中から、ひとつだけお読みします。作者名は省きます。
「僕は、『福者ギョーム・ヨゼフ・シャミナード神父』を読んで、シャミナード神父がどこまでも聖母マリアやキリスト教の教えを追い求めていく姿に圧倒されました。
若い頃、ちょうどキリスト教が迫害されつつあった時期に本格的に司祭の職に就くには強い勇気が必要だったのだろうと思いました。僕ならば、周りの反応が怖くて思いとどまるかもしれません。さらに、自分の身のまわりでもキリスト教徒が暮らしにくくなってきて、ついには自分の身も安全とはいえない状況になっても、身を隠し続けながら、多くの人を救おうとするシャミナード神父はキリスト教に対する思いが強いんだなと思いました。
そして、シャミナード神父が「聖職者」としても、「教育者」としても大きな功績を残せた最大の理由は、神父の「心」なのではないかと思いました。聖母マリアの教えや救いを素直に受け止められる広く純粋な「心」、迫害や挫折に屈さない強い「心」。隠れ家でかくまってくれた婦人たちも、ラムルス嬢やトランケレオンも、きっと神父と同じ「心」を持っていたのではないかと思います。
僕たちは、そんな人と人との心のつながりを大事にしていたシャミナード神父たちが創立したマリア会の学校で学んでいます。キリスト教の教えや、シャミナード神父の思いを、自分たちが形にしていけるように、これからも自分の心を育てていけるように日々を過ごしていきたいと、この本を読んであらためて感じました。」
○聖書の言葉 「ルカ福音書」10章25節~37節 〈善いサマリア人〉
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
○今日のお話
おはようございます。今読んだ聖書の箇所は「善いサマリア人のたとえ」と呼ばれる箇所です。光星に入学してから、1回や2回は耳にしたこともある箇所ではないでしょうか。イエス・キリストがその宣教活動の間、何度も何度も強調し、弟子たちに実行しなさいと諭した「隣人愛」の実践に関する教えの中でも、最もよく知られた箇所かもしれません。この箇所はまた、「地の塩・世の光」の言葉が示す生き方にも結びついています。今日の宗教講話は、この「善いサマリア人のたとえ」をヒントにしながら、「隣人愛」について考えてみます。
さて、11月も終わりに近づき、いよいよ本格的な冬到来という季節ですが、皆様、いかがお過ごしですか?北海道のように寒さの厳しい土地ではもちろんですが、その他の寒冷地でも、何をおいても暖かい居場所と食べ物と衣服をどう確保するかということが、この時期の最重要課題になりますね。そんな凍える季節にも関わらず、十分に暖をとれない人たちもいます。そういう方々に少しでも体を休めたり入浴できる場所を用意しようと努力している方々がいます。暖かい食事や洋服を準備して利用してもらおうと呼びかけてる人たちもいます。生活に困窮している人たちのための街頭募金なども行われます。
注意して見回してみると、自分たちの周りにも生きるための助けを必要としている人たちがいます。そのような人たちがいることに気づいて自分のできることを何とか実践しようとしている人たちもいます。ただこうしたことは、関心を持って探そうとしないと見えてこないことかもしれません。自分の世界の中で、自分の興味のあることに専念することばかりを繰り返していると、次第に自分以外のことへの関心が鈍っていき、いつしか声の小さい人たちのつぶやきが聞こえなくなっていくように思います。困っている人がいることを認識していながら、実際に何かの行動に移す際にいろんな気兼ねや遠慮などから逡巡することを繰り返していく内に、何もしない自分に慣れっこになっていくこともあるようです。
先ほど読んだルカ福音書の冒頭でイエスに質問した律法の専門家も、また、「善いサマリア人のたとえ」話の中に登場してきた祭司やレビ人も、隣人愛の大切さを知識としては知っていたようです。しかし、実際に具体的な場面で、目の前に瀕死のけが人がいる状況で、用事を抱え先を急ごうとする自分の足を止めてまで、何かの行動を起こそうとはしませんでした。誰かに心を向け、声をかけ、手を差し伸べ、居場所を作ろうとしてあげること、他者を思いやり愛することは、時には犠牲を伴います。簡単なことではありません。
人を思いやる心は誰の中にもあり、それを実行に移すか移さないかはそれぞれ個人の判断に任せべきであって、隣人愛は外から強制的に求められるものではない、という意見もあります。わたしは、人間の内に神様からいただいている善をなそうとする意欲は、少し臆病な一面があるように思います。何度か繰り返し隣人愛を実践していく努力を重ねていくと、そうした意向は徐々に強められていき、多少の犠牲は恐れなくなっていくどころか、他者の笑顔が自分の喜びに感じられていき、隣人愛の業が容易に実践しやすくなっていく傾向があるように思います。その一方で、何かと理由をつけて隣人愛を実行しない決断を重ねていくと、他人のことを考えることすら面倒くさくなっていくように思われます。
わたしたちの行動の多くは身近な人を手本として修得していきます。誰かの呼びかけが何かの行動へのきっかけとなることもあります。12月になると、学内で募金の呼びかけがあるかもしれません。皆さんの善意と愛の心がより一層強まる機会となり、また誰かの心に生きる希望の灯をともす機会となれたら幸いです。
〇聖書の言葉 「コリントの信徒への第一の手紙」11章23節~26節(「最後の晩餐」と呼ばれる場面でのイエスの言葉)
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
〇今日のお話
おはようございます。来月1日の創立記念日には、これまでの光星学園の歴史を支えてくださったすべての関係者に思いをはせながら、とくにこの1年間に亡くなられた関係者の方々に、神様からの永遠の安らぎが与えられますようにと、そしてまた、これからの光星学園とそこに集う人たちを天国から見守っていてください、という意向をもって慰霊ミサをお捧げします。そこで、今日の宗教講話は、カトリック教会でミサと呼ばれている宗教儀式についてお話ししようと思います。ちなみに、ギリシア正教やロシア正教などの正教会で行われる聖体礼儀や、聖公会やプロテスタント教会で行われる聖餐式などと、言葉は違いますが、内容的には似ています。
毎日のように教会や修道院で行われるミサがあります。その他にも、いろんな機会に特別な意向をもって行われるミサもあります。例えば、亡くなられた方々の慰霊のためのミサ、平和を願うミサ、修学旅行先で皆と一緒に捧げるミサ、結婚式でのミサ、葬儀の時のミサ、などなどです。いろんな意向に応じて、読まれる聖書の箇所や神父の唱える祈りが違ったりしますが、中心となる部分は変わりません。今日はそのミサの核となる部分について話します。
ミサは、キリスト教の2千年の歴史を通して、少しずつ現在の形をとるようになってきましたが、もとをたどれば、イエス・キリストの十字架の上での無残な死と、その後におこった復活したイエス・キリストとの出会いを体験した弟子たちが、集まってその衝撃的な体験の意味を互いに問いかけ、さらに宣教活動中のイエスの言葉や行いを振り返るという、何度も何度も繰り返された集まりが原形だと思われます。その集まりでおそらく当初から強く思い起こされていたのは、イエスが死の前夜、弟子たちと行った食事(俗に最後の晩餐と呼ばれている)の場面でのイエスの不思議な言葉と行動だったと思われます。
新約聖書の冒頭に納められている4つの福音書には、イエスの宣教活動とその後に起こった十字架にかけられての死、および復活の出来事が記されていますが、その内、マタイ、マルコ、ルカの3福音書は、死の前晩に行われた弟子たちとの最後の晩餐において、食卓に用意されていたパンとぶどう酒を用いてなされたイエスの不思議な約束を書き記しています。3つの描写は完全に同じ文章という訳ではありません。それでも、そこには、差し迫っている自分の死を強く自覚しながら、弟子たちといつまでも共にいたいという愛に根ざしたイエスの強い約束が感じられます。「このパンは私のからだです、このぶどう酒はわたしの血です、わたしを記念するためこのように行ないなさい。そうすれば、必ずそこにわたしもいる。」
先ほどお読みしたのは福音書ではなく、パウロという人の書いた手紙の一節です。キリスト教徒に改宗してからのパウロが現在のトルコやギリシア各地で宣教活動をしながら、自分が種をまいて誕生させた各地のキリスト教徒たちの共同体に活発に手紙を送っていたものの一つでした。そしてこのギリシアのコリント地方の信徒宛の手紙は紀元後55年頃には書かれており、どの福音書よりも早い時代に書かれたものと見なされています。その中でパウロは、福音書において最後の晩餐として描写される箇所でイエスがパンとぶどう酒を示しながら弟子たちに語っている言葉と仕草を書き留めています。つまり、パウロが活躍していた紀元後50年代(イエスの十字架上での死後わずか20数年後)には、あちこちで催されるキリスト教徒の集会で、最後の晩餐の場面でイエスが語った言葉と仕草が、集会を仕切る人物(おそらく居合わせたイエスの直弟子たち)によって繰り返されており、そして、集まった信徒たちはそこで手渡されるパンとぶどう酒を、あたかもイエスから手渡されたものとして受け取り、食し、イエスと一つに結ばれたことを実感するといったような、今日のミサの中心部分で見られることが、すでに一つの儀式としてある程度出来上がっていたことがうかがわれます。
この集まりは、初めの頃からイエスが復活したとされる日曜日に集会を開くことが大切にされていたと言われます。その場で、参加した信徒たちはイエスをよく知る弟子たちからイエスのことを何度も何度も教えてもらったものと思われます。そこで語られた事柄が次第に書き留められていき、例えば、福音書の形でまとめられ書き写され、各地の集会でも読まれるようになっていったようです。でも、集まりの場で一番重要視されていたのは、用意されたパンとぶどう酒を分かちいただき、イエスとの一致を味わうことでした。自分たちのために命を分け与えようとされるイエスの思い、いつも自分たちと一緒にいてあげるというイエス・キリストの約束を、感謝の内に受け止めながら、信徒たちは日々の生きる力の源としていこうとしました。ミサは初めから、信徒たちがパンとぶどう酒の形の中に込められたイエスの愛を感謝の内にいただき、イエスと共に自分たちを神様に向けて捧げていこうとする共同体の感謝の祈りでした。
いっぽう、神様を冒涜する者であり、社会を混乱させる者として、十字架刑に処せられたイエスを
救い主として信じ、彼が復活したということを信じる信徒たちも、ユダヤ人社会では受け入れられず、またローマ帝国内でもしばしば激しい弾圧を受け続けましたから、彼らの集会はなかなか公然とはできず、4世紀初めくらいまでは、夜の闇に紛れて人目につきにくい森の奥、洞窟、地下墓地などを利用したりしていました。見つかれば捕らえられ、場合によっては殺される緊張感の中で、信徒たちは集まってイエスの命であり、イエスの心そのものであるパンとぶどう酒をいただくことで勇気づけられていました。
日本のキリシタン迫害の時代にも、宣教師たちは命がけでミサを行い、パンを分け与えようとしました。信徒たちも命がけでパンをいただきながら、自分たちの苦しみがイエスの十字架と結ばれて、やがてはイエスのように、神様から永遠の命をいただくことを希望することができました。
慰霊ミサの中でパンをいただくのは、洗礼を受けたカトリック信徒だけですが、ミサを司式しながら、わたしはそこに参列するすべての人たちの上に神様からの祝福が豊かに与えられるように祈っています。そして、皆さんがイエスのように誰かを生かすパンになれるように祈っています。
〇聖書の言葉 「ヨハネによる福音書」12章24節~25節
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
〇今日のお話
皆さん、こんにちは。今日で一学期が終わります。感染予防に気を配りながら、皆さん、毎日良く緊張感を保ち続けてくれたなあと、心からそう思います。自分だけのことを考えれば、もっとぱーっと発散したいと思うこともあったでしょう。友達と時のたつのも忘れるくらいに語り明かしたいと思うこともあったでしょう。でも、誰かのこと、家族や友達のことを考えたりして、ぐっと我慢することもあったのではないでしょうか。とにかくひと区切りつけられるところまで来たということで、お疲れさまと言いたいです。
さて、皆さんは歌手のさだまさしさんが作り、歌っておられる「ひと粒の麦~Moment」という曲をご存知でしょうか。これは、パキスタンでそしてアフガニスタンで、35年以上の長きにわたって医療活動を行うかたわら、用水路を掘削したりして、現地の人々の生活の向上のために多大な貢献をされた日本人医師中村哲先生のことを歌ったものです。
中村医師は、現地の人たちから尊敬され、慕われていたそうですが、その長年にわたる働きに対し、アフガニスタン政府からも2018年に国家勲章を、2019年には名誉市民権を授与されたそうです。、でも、残念ながら2019年12月に何者かに銃撃され命を落とされました。さだまさしさんは、異国の地にあって、幾多の困難にぶつかりながらも、目の前にいる現地の貧しい方々の健康のために、生活の安定のために、自分の持っているものを惜しむことなく差し出しておられた中村医師の生き方に深い尊敬の念をいだいておられたところに、銃弾に倒れたとの悲報に接し、何とかしてこの方のことを多くの人に語り伝えていきたいとの思いから、作詞作曲されたようです。
さだまさしさんがどのような考えで「ひと粒の麦」というタイトルを選ばれたか、詳しいことは知らないのですが、中村医師が中学生の時に通っていた学校でキリスト教の洗礼を受けておられたそうですから、わたしが先ほどお読みした新約聖書のヨハネによる福音書の箇所を念頭に置いてつけられたのではなかろうかと思っています。
さて、ヨハネの福音書の言う「一粒の麦」とは何を意味しているのでしょうか。実はこれはイエスの言葉なのですが、その前後を読むと、イエスが自分に間近に迫っている死を強く意識しながらも、自分の命を守るためにそこから逃げ出すのではなく、神様と人々への愛のために自分のすべてを差し出す決意であること、それがひいては多くの人々への神様からの救いをもたらすことになるのだという、イエスの確信や覚悟を表明した言葉なのです。
収穫され殻に包まれた状態の米や麦は、種まきの時が来ると苗代にあるいは畑にまかれます。雨や太陽の恩恵を受けながら、殻はやがて破れ、そこから芽や根が生え、緑なす茎や葉となり、やがては20倍30倍、あるいは100倍の実り豊かな穂をつけていきます。種籾、麦粒のままでは豊かな実りとなりません。ある意味で、自分を変えていく、自分に死んでいくことによって、他のものの命を生かす滋味豊かな食べ物になっていくのです。
イエスの生き方も、中村哲先生の生き方も、確かに誰かのために、とりわけ貧しく弱い人たちのために自分の時間や命を差し出すようなものでした。残念ながら、理解できない人たちによって命を奪われ、その思いは地に落ちてはかなく朽ち果てたかのように見えたこともありましたが、いつしか多くの人の心の中に根づき、その人を生かす力になっていきました。おそらく、さださんの心にも中村さんがともした灯りが点され、さらに、さださんの紡いだ言葉を通してまた別の人の心にも、誰かを思う愛の心が根づいていくのでしょう。
わたしたちの誰もが英雄的な行為ができるとは言えないかもしれません。でも、皆さんの内にある、今の自分の殻を破ろうとするちょっとした勇気が、思いやりに満ちた笑顔や声かけが、誰かを生かすことにつながるということは言えます。同じ思いの仲間がいれば、それはさらに力強い動きになっていけるはずです。光星学園の校訓として掲げられている、新約聖書のマタイ福音書からとられた「地の塩・世の光」の言葉も、今日取り上げた「一粒の麦」という言葉も、皆さんが今生きているその場所で、できることが何かあるよと促していると思います。
○聖書の言葉
コリントの信徒への第一の手紙 9章24節~25節
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
○今日のお話し
おはようございます。今年の夏は例年以上に猛暑日が長く続き、寝苦しい夜も多かったと思います。また、相変わらず新型コロナ感染予防にも注意を払わなければならないということで、体調管理にはさぞ苦労されたのではないでしょうか。暑い中での講習や自宅学習に励んだ皆さん、インターハイなどで強い相手と競い合った皆さん、本当にご苦労さまでした。
さて、そんなきびしい状況の下で、開催が危ぶまれていたオリンピックでしたが、先週日曜日になんとか閉会式を迎えることができました。わたしも、東京でのいろんな競技をはじめ、札幌での競歩やマラソンなどをテレビで観戦させてもらいました。手に汗握る試合が多く、ハラハラドキドキでしたが、メダルを獲得したたくさんの日本人選手の姿などにとても心揺さぶられました。また、いろいろな立場で大会の準備に携わった方々、運営を支え続けたスタッフのご苦労はたいへんだったろうなと想像していました。
ところで、日本人選手だけでなくすべての選手が、大会そのものが開催されるか不確実な中、また新型コロナへの不安や恐れを抱きながら、自分が掲げた目標や夢に向かって、毎日の練習に歯を食いしばって取り組み続け、投げ出しそうになる自分を奮い立たせてきたのだろうなと思いました。真夏の札幌の街並みを圧倒的な速さで走り抜けた男子マラソンのキプチョゲ選手も、レース後のインタビューに、「(トレーニングは)もちろん苦しい。つらい。」と述べながらも、「2年間、特に最後の5カ月は集中して東京五輪に向けて準備した。日本は暑いと分かっていた。札幌もだ。それに適応できるようにトレーニングした。」と答えていました。
わずか数秒の、あるいは2,3時間の、競技によっては3,4日間の本番で最高の姿を見せるために、何年も前からきちっとスケジュールを立てて、カロリー計算をし、食べ物に気を配り、試合開始時刻を想定しながら睡眠時間を設定する。練習の際にも、自分の弱点を克服するために、また記録を伸ばしたり縮めたりするために、忍耐強く取り組む。どの選手もそのような思いで準備してきたんだと思います。
結果として、入賞できなかった人もいれば、メダルを手にできた人もいて、悲喜こもごもでしたが、各自が思い定めた目標のために、多くのことを犠牲にしてでも努力することのすばらしさを、教えられた気がします。また、わたしたちも誰かに強制されてではなく、自分なりに考え悩みながら、自分の目標を見いだしていけたら、日々の課題に取り組む姿勢も変わってくるのかなあと考えさせられました。
最後に、今日の聖書が、単に競技の世界の話しだけで終わっていないことにも触れておきます。競技場で走る者のめざす勝者の冠やメダル、あるいは彼らが受けた賞賛は、時の経過とともに残念ながら色あせたり忘れられることもありうるでしょう。しかし、わたしたちに命を与えてくださった方、神様が用意しておられる冠は、朽ち果てることも色あせることのないものだよと著者は語ります。
わたしたちすべてが、与えられたこの命をどのように生きるかということについて最終的に問われるよと、著者は語ります。
与えられたこの命と能力をどのようにすれば、より輝かせていけるのでしょうか。神様の望むものになれるのでしょうか。簡単に一言で語れないことかもしれませんが、聖書は全体として強調します。他者を愛そうと努めたかどうかが大事になってくるよと。それは「地の塩」「世の光」を目指す生き方でもあります。誘惑や試練にぶつかることの多い人生ですが、生きることの意味や目標に思いをはせながら、かけがえのない今日という時を大切に過ごしていきたいものです。
〇聖書の言葉 「マタイによる福音書」14章22~33節〈湖の上を歩く〉
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
〇今日のお話
中間試験から時間がたちましたが、結果はいかがでしたか?まあまあの結果にホッとしたり、もうちょっと早くから準備すればよかったなあと少し後悔している人もいれば、もう新たな努力目標を見いだして頑張り始めている人もいるかもしれません。部活動をしている人には、大会での試合結果に満足感を覚えたり、あそこでこうしたらよかったかなと少し肩を落としたりしている人もいるかもしれませんね。今日の宗教講話は、そのような、自分にちょっぴり落胆している人、挫折感を味わっているような人たちに特に話してみたくて用意しました。
さて、年間行事予定表の今日のところに「聖ペトロ聖パウロ使徒」という言葉が記載されています。このペトロとパウロの二人は、イエス・キリストの教えを人々に告げ知らせようと努力した最初の頃のお弟子さんたちの中で、その功績においてもまた影響の大きさにおいても、抜きんでた存在とみなされており、どちらも紀元後60年代にローマで処刑され殉教していることもあり、ローマの守護の聖人と呼ばれることもあります。今日6月29日は彼らを記念する大きな祝日になっています。
今日の宗教講話はこの二人のうち、ペトロを取り上げて紹介してみます。ペトロは湖で漁師をして生活していた人ですが、兄弟のアンデレと一緒にイエス・キリストから、わたしについてこないかと声をかけられて弟子となり、次第に弟子たちのリーダー的な存在となっていった人物です。そして、カトリック教会の最高指導者である教皇の第1代目に当たる人物とみなされています。ペトロから数えて第266代目とされる現フランシスコ教皇は一昨年の秋に来日していますので、そのニュースを記憶している生徒もいるでしょう。その教皇が現在住んでおられるのはイタリアのローマ市内の一角にあるヴァチカン市国ですが、そこにある壮麗な聖ペトロ大聖堂は、初代教皇聖ペトロが迫害を受けて殉教した後に埋葬された墓所の上に建立されたと言われています。そういった背景もあり、ペトロは漁業に従事する人たち、あるいは教皇たちの守護の聖人とも呼ばれています。
ともかくカトリック教会にとってはペトロは重要な存在なんですが、イエス・キリストの弟子となった最初の頃から、品行方正で誰もが認めるような知恵や徳に秀でていたのかというと、どうもそんな感じは受けません。新約聖書が彼について言及する箇所を読めば、どちらかと言えば血の気の多い、率直と言えば率直な、思ったことをすぐ口に出し行動に移すタイプの人でした。そしてそういうタイプの人にありがちですが、言ったりしたりした後から激しく後悔するみたいな人でした。
先ほど読んだ聖書の箇所にも、湖の上を歩かれるイエスの姿に驚くと同時に、後先考えずに「わたしも歩きたいです、歩かせてください。」と口走り、一人だけ湖面に足を下ろすペトロの姿が記されています。師であるイエス様に対する信頼の気持ちが引き起こした行動ではあるんでしょうが、信頼しきれずに溺れそうになって、でもすぐに「助けてください。」とすがりつくところが、とても人間的で、わたしは好きです。
カトリック教会ではペトロを弟子のリーダー、初代教会の礎を築いた重要な人物として尊敬し続けていますが、その一方で、ペトロ自身の立場としては触れないでいてくれたらなあと思っているかもしれないエピソードが新約聖書には他にもあります。その最たるものは、イエスが反対者たちに捉えられ死刑の宣告を受けようかという状況にあったときのことです。せっかく一番弟子としての責任感からだと思いますが、審問がなされている屋敷まで忍び込んでいきながら、近くにいた人から、「お前もあのイエスの弟子だろう?」と詰問されたときに、三度にわたり、「とんでもない。あんな人など知りません。」と否定したことです。こんなことを口走ったら、そしてそれが周囲に知られてしまったら、恥ずかしくて、もう弟子たちの中に戻れないんじゃないだろうかと、わたしなどは思うのですが。実際、すぐにペトロは自分を恥じて激しく泣いたと書かれています。でも同時に聖書は、後日、復活したイエスがペトロに姿を見せて抱きしめ、許しの言葉かけ、新しい任務を与えということも書き添えています。
後悔したり、自分に落胆することの多いわたしたちですが、ときどき聖書の中に慰めや生きる上での励まし、道しるべを見いだすこともあります。それは多くの場合、イエスの慰めに満ちた暖かい言葉に触れてのことだろうと思います。でも、ペトロのような、挫折を経験し、どん底まで落ちた自分を助け起こしてくれる方の手にすがりつきながら、もう一度生き直してみようと再出発を決意する姿なども、わたしたちを大いに力づけてくれるように思います。
ヴァチカンの聖ペトロ大聖堂内の右手側に、椅子に座った姿の聖ペトロの黒いブロンズ像があるのですが、その右足は、ペトロに親愛の情を込めて数多くの人たちが接吻したり、指で触れたりするものですから、つるつるにすり減っています。個人的なことになりますが、わたしの洗礼名がペトロという縁もあり、ペトロにはとても親近感を覚えます。自分が失敗したときなど、彼から勇気づけられたこともしばしばです。わたしもかつて聖ペトロ大聖堂を訪れる機会をいただいたとき、この像に触れてきました。そのとき、「おまえもがんばれよ。」と言われているような気がしたのを覚えています。
○聖書の言葉:「ルカによる福音書」1章5~56節
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」
そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」
○今日のお話し
さて、キリスト教のカトリック教会では、自分たちが、救い主であり聖なるお方と信じているイエス・キリストのお母さんであったマリアを、聖なる方の母、聖母マリアと呼んで敬愛してきました。それは彼女を神のような存在と考えてのことではなく、あくまでもイエス・キリストこそかけがえのない尊い救い主と信じながらも、彼を私たちのために産んでくださった方として、マリアへも尊敬の念を向けてきたのです。そして、彼女のためにたくさんの祈りや讃美歌をつくり、また、彼女のすばらしさをたたえるためにたくさんの絵画や彫刻を作ってきました。
昨年の5月の宗教講話でもイエスの母マリアを取り上げてお話ししましたが、今日も、光星学園の長い歴史の中で大切にされてきたマリアのことを取り上げてみます。
カトリック教会にはほかの宗教と同じく宗教上の暦があり、その中ではもちろんイエス・キリストの生涯における重要な出来事を記念する日が大切にされています。たとえば彼の誕生を祝うクリスマスや、彼の十字架に張り付けられての死とその3日後の復活という出来事を祝うイースターなどです。
と同時に、イエスの母であるマリアや、イエスを救い主と信じた弟子たちの命日なども記念されていますが、とくにマリアに関連した記念日はいくつかありますし、あるひと月を通してマリアを記念することさえしてきました。カトリック教会では5月を聖母月と呼び、イエスを生んでくださったことを感謝し、彼女と一緒にイエスを仰ぎ見、神様に祈りをささげようとしてきました。本校でもその伝統にのっとり、5月の終わりに学園聖母の日を定め休校日としています。
ところで、なぜカトリック教会はそれほどの熱心さでマリアに敬愛の念を向けてきたのでしょうか。先ほど読んだルカによる福音書の中にも表現されていると思いますが、一つには、マリアの姿や生き方の中に、神様と人間とのかかわり方の、ある意味で手本となるようなものを感じ取ってきたからだと思います。わたしたち人間は神様の前では誰もが不完全で弱く、知らないことがいっぱいあるちっぽけな存在でしょう。マリアも神様の前にあっては自身を小さな取るに足りない召使のように自覚していたようです。そんな無力で小さな自分に神さまが何か大きな使命を託そうとしていると伝えられた時、当然ながらしり込みしそうになりながらも、最終的に彼女は神様にすべてを任せようと決断します。そうした自分の不安や心配にふるえながらも、自分を見守っているであろう神さまに信頼して一歩踏み出そうとするマリアの姿勢に、信仰心や勇気の一つのあるべき姿を感じ取り、後世の人たちは心動かされ、励まされてきたのではないでしょうか。
もう一つ、先ほど読んだ聖書の箇所にも記されていますが、多くの人間の人生に重大な影響を及ぼす者の母になるという、自分に託された使命の重たさに舞い上がって有頂天になったり、天狗になったりせず、周りの人を支えてあげようと自分から近づいていくところにもにじみ出ている彼女のやさしさ、温かさを指摘できると思います。そこに、多くの人が慰めや希望を感じてきたのだと思います。
聖母月にあたり、星のようにわたしたちの歩く道を照らしてくださるマリアに励まされながら、勇気を持って真理を探し求め、不正をただし、愛を実践できる人を目指していってくれることを願っています。
○お祈り
最後に、今なお新型コロナウイルスによる困難の中にある世界中の人のために必要な助けを願って、マリアと心を合わせ神様にお祈りをささげます。
「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
いつくしみ深い神よ、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、
今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、
感染の終息に向けて取り組むすべての人、
医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。
亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、
尽きることのない安らぎに満たされますように。
不安と混乱に直面しているすべての人に、
支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神よ、
わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、
世界のすべての人と助け合って、
この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
希望と慰めのよりどころである聖マリア、
苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。
(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)
○聖書の言葉:「マタイによる福音書」18章1~4節
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょう
か」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり
言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分
を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
○今日のお話し
新入生の皆さん、少しは学校に慣れましたか?新入生だけではなく、クラスが変わったりして、これまでとガラッと環境が変わり、見知らぬ人と初めて同じクラスになり、緊張の中で過ごしているという人もいるかもしれませんね。
わたしが初めて中学生になったときのことを思い起こしてみますと、地方の小さな村からから街の中にある学校に入ったこともあり、クラスのみんなが自分よりも頭が良さそうに感じ、とても気後れした気持ちでスタートしていたのを思い出します。光星中学、光星高校を第一志望として入ってきてくれた人は違うかもしれませんが、他のところに行けなくてここにきてしまったという人は、少しすっきりしない気持ちを抱いて過ごしているかもしれません。
さて、今日の聖書の箇所は、謙虚な姿勢の大切さを教えているものとして、新しい環境で新しいスタートを切ろうとしている人たちに味わって欲しくて選びました。周りを見て、自分が他の人より優れていると感じてホッとしている人もいるでしょう。逆に、他の人に比べて自分が見劣りするように感じて沈んだ気持ちの人もいるでしょう。あまり、周囲の誰かと比較して一喜一憂しない方がいいと思います。
全知全能の神さまの前では、人はみんな似たり寄ったりの不完全な存在です。自分が取るに足りないちっぽけな存在であり、他者に誇れるところのほとんどないものだと自覚しながら生活していくことはとても大事です。これまで自分が獲得してきた知恵や能力のほとんどは、誰かの助けを得ながら学んできたものでしょう。これからもずっと、学ばせていただくという謙虚な心構えでいたらいいと思います。
イエス・キリストは、わたしたち人間は誰もが神さまによって命を与えられ、いろんなことを学び経験しながら、最終的には神さまのもとに帰って行くんだよと教えていました。そのような人生という旅路においては、自分一人の力だけで歩いて行けるのではなく、幼子の時はとくに、親の庇護を受けながら食べ物を手にし、知恵を身につけていきます。周りの人に支えられながら苦難や試練に対処する道を学んでいきます。
おごらず、たかぶらず、今の自分をしっかりと見つめ、人生の意味や目的を真摯に尋ね求めながら、毎日を過ごしてくれたらと願っています。お家の方、周りの仲間、先生たちがきっとたくさんのヒントを示してくれると思います。
○お祈り
最後に、今なお新型コロナウィルスによる困難の中にある世界中の人のために、お祈りをささげます。
「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
いつくしみ深い神よ、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、
今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、
感染の終息に向けて取り組むすべての人、
医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。
亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、
尽きることのない安らぎに満たされますように。
不安と混乱に直面しているすべての人に、
支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神よ、
わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、
世界のすべての人と助け合って、
この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
希望と慰めのよりどころである聖マリア、
苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。
(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)