
皆さんおはようございます。お元気ですか?現在、アメリカ、カナダ、メキシコの合同開催によるサッカーのワールドカップが開催中です。日本チームは大会直前から主要メンバーが何人もけがで出場できなくなるという事態をはじめとして次々に試練や困難に遭遇しながら、弱気の虫に負けないで今やるべきこと今できることに共に全力でチャレンジしようという雰囲気が感じられ、わたしは試合の結果も気になりつつも、その前向きなメンタリティーにとても驚きを感じながら観戦していました。今朝の試合結果はとてもとても残念でした。本大会での彼らの活躍をもう少し見ていたかったです。
さて、今日の宗教講話は、誘惑について話します。
聖書の言葉(マタイによる福音書4章1~11節「誘惑を受ける」)
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
旧約聖書の「創世記」1~3章には、神様に創造された最初の男と女が神様の用意してくださったエデンの園というすばらしい環境の中で、他の生き物たちとも調和を保ちながら穏やかに生活し始めていたことが語られています。何も問題が起こりそうになかったところに、蛇の姿をした誘惑する者が近づいてきて女にささやきます。「神様はここにあるどんな木からもとって食べるなと命じたのか?」女は答えます。「わたしたちにはここにあるどの木の実も食べていいと言われていますが、園の中央にある木の実だけは食べても、触ってもいけない、死んでしまうから、と言われています。」蛇は女に言います。「それを食べても決して死ぬことはないさ。それどころか神様のように善悪を知るようになることを神様は知っておられるのだ。」蛇からそう言われて、女があらためてその木を眺めると、何か魅力的で、賢くなれるよと唆してくるように感じて、その実を取って食べ、一緒にいた男にも渡して、彼も食べた。そうしたら、ふたりとも目が開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆ったと書き記されています。少し長くなりましたが、「創世記」3章1~7節までを紹介してみました。
わたしたちには本来生きていくために必要ないろんな欲求、例えば食欲、睡眠欲、所有欲、性欲、承認欲求などがそなわっています。わたしたちは成長する過程で、自分の内にあるそれらの欲求を意識しながら、同時に周囲の人の存在やその人たちからの要求をも念頭に置いて、社会的にゆるされるやり方で欲求を満たすことを学んでいきます。でも、自分の中にある欲求をコントロールすることはそんなに容易いことではありません。自分の内にあるさまざまな欲求や衝動を抑えきれずに暴走してしまい、周囲を混乱させて傷つけてしまうこともあります。
また、わたしたちのまわりにはいろいろな誘惑の種が潜んでいます。誰かがそっとささやきかける言葉、あるいはネットの中から手を変え品を変えしながらわたしたちの目と心を惹きつけようと迫ってくるさまざまな呼びかけがあります。それらはわたしたちの心をある方向へと、しばしば悪の道へと引っ張っていこうと狙っています。
先ほど紹介した「創世記」の中の蛇は、人間の中にあるもっと賢くなりたいとか、限界や制約を超えて自由に羽ばたきたいといった向上心などに働きかけ、あわよくば人間を本来神様が望んだ道からそれさせようとの狙いをもって近づきささやきかけます。誘惑者は女だけに話しかけているように描かれていますが、男でもよかったと思います。外からの唆しによって自分の内に芽生えた心の動きや変化などを、もし隣りにいる人に相談できていたら、もしかして違う結果になっていたかもしれないと感じます。
内からの衝動にしろ、外からの誘惑にしろ、一人でだけでそれと向かい合っていると、かえってその影響力がどんどん大きくなり、絡め取られてしまうこともあり得ると「創世記」は語っている気がします。誘惑を感じたときには、できれば誰かに聴いてもらうことが助けになるのではないかと思います。ただ、こちらの心の中を知ったらそれを手がかりにして傷つけようとしてくる人もいたりするようなので、できれば冷静に耳を傾けてくれ、こちらの秘密を悪意を持って利用しないような経験豊かな大人に聴いてもらうのが助けになるかもしれません。
イエス・キリストは、わたしたち人間が試練に遭うと簡単に倒れやすく、誘惑にはしばしば負けてしまい、善を願う心を持ちながらもついつい悪を行ってしまうことが多い存在であることをよく知っていました。だから、弟子たちに教えてくれた「主の祈り」の末尾で「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と、神様にいつも祈りなさいと教えています。また、神様からの、あるいは大切な誰かからのわたしたちへの願い、期待、信頼を忘れず、それを心の中にしっかりと意識しながら生きていこうと努めるときに、簡単に誘惑に飲み込まれてしまうことはないと教えるために、悪魔の誘惑と対峙しこれを退けるご自身の姿を見せてくれたような気がします。
皆さんおはようございます。お元気ですか?インターハイの予選が始まっています。試合に出られる選手の皆さんが精一杯のパフォーマンスを発揮できるよう祈っています。またちょうど2週間後には一学期の中間試験も控えています。コツコツと地道な日々の努力の積み重ねを忘れないでほしいです。
毎年の個人的な感想なんですが、5月の札幌のいろんな情景を眺めながら、ああこれが北国の春かあと感じ入っています。わたしの故郷、九州の長崎では1月に水仙が咲き、2月には梅の花が、3月には桜が咲いていたように記憶していましたが、こちらでは5月になってありとあらゆる樹木が新芽を芽吹かせ、たくさんの草花が一斉に咲き始めるように見えます。生き物たちもこの時期、活発に動き出し、いのちをつなげるためのさまざまな行動へと挑戦していきます。人間も心弾む季節と感じるのかGWの時期とも重なりあちこちに山菜取りや行楽に出かける人の姿が多くなります。5月はまた、母の日を祝って花束や贈り物が子どもたちからの感謝を込めてお母さんにプレゼントされたりします。カトリック教会ではイエス・キリストの復活を喜び祝うシーズンのまっただ中だったり、イエスの母マリア思い起こす聖母月であったりします。いろんな意味で5月は喜びの季節と言ってもいいのではないかと思っています。
聖書の言葉(マタイによる福音書6章25~34節「思い悩むな」)
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い
悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
長く厳しかった冬が遠ざかり、日一日と雲間から温かい日差しが注がれるようになると、そこかしこでいろんな花が咲き乱れ、枯れ草の野原では青々とした野草が伸び始めます。そんな草花の間を、なんとかいのちをつないできた蝶や小鳥たちが蜜を求めて飛び交います。青草を食べる動物たちはたっぷりとお腹を満たし、新しいいのちも母親の胎内に宿されていきます。先ほど読まれた福音書に描かれるような情景が、神の祝福の下でなされているかと思わせるように、毎年のように繰り返されていきます。
でも、生きとし生けるものたちが活発に行動するこの季節ですが、喜びの季節なんてとんでもないと感じている方もいるかもしれません。涙目になり鼻をグズグズさせながら「うっとうしいなあ」「外に出たくないなあ」とつぶやいている花粉症の方もおられるかもしれません。また、新しい環境での人間関係や仕事や勉強上の悩みを抱えて、なんとなく重たい気持ちで日々を過ごしているかもしれません。しっかり準備して臨んだはずの舞台で思い描いたような結果を手にすることができずにガックリと肩を落としている人もいるかもしれません。
自然界の季節の移り変わりと言っても、当然ながら毎年同じ日に同じ気温になっているわけではありません。風の強さや方向、海水温や波の高さ、暖房をつけた日消した日、年によって多少のずれはあります。でも世界の海水温、風の流れ、温暖化の傾向などが絡まりながら季節が動いていきます。個人や一国の奮闘だけでそのサイクルが左右されていくものでもありません。古来、その自然界の動きの根源に、人知を超えたものの存在を感じてきた人間の歴史があります。
自分の思い通りにいかない状況に悩んでいる皆さん、疎外感を感じている皆さん、むつかしい病気に罹患し落胆している皆さん、その困難な状況がなかったら幸せいっぱいの日々が送れていたでしょうか。もしかしたら、困難や障害にぶつかったから、自分の中の何とかしようとする内からのエネルギーを実感できたという人もいるかもしれません。真の支えとなってくれる友人の存在に気づく機会になるかもしれません。何もできない無力な存在だと感じていた自分の、忍耐強く日々を過ごそうとトライする姿が誰かの生き方に大きな影響を及ぼしているかもしれません。人間、一様ではなく、考え方、受け止め方、感じ方も、人さまざまです。「わたしたちに生きる力と他者と関わろうとする意欲を与えてくださった方がおられるなら、その方はきっと皆さんが困難の中にあっても、何らかの助けの手を差し伸べてくださるよ。」イエス・キリストがマタイの6章で語っているのは、そういうことです。困難は、わたしの成長を願う神が用意している試練かもしれません。もっと強い嵐が来ても倒れることなく、その枝の下に日陰と安らぎを求めて腰を下ろす人たち喜ばせるほどにわたしたちが大きく力強く育つために。
おはようございます。昨日夕方の地震や津波で皆様方の故郷や知り合いの人たちへの被害や影響はありませんでしたか?しばらくは後発地震に注意しましょう。
新年度が始まって2週間ほどたちましたが、皆さんお元気ですか?新入生の皆さんは若干の不安を抱えながらの光星学園でのスタートだったかもしれませんが、毎朝正門そばに立って笑顔で出迎えてくれる駒井校長先生の姿によって元気づけられている人も多いのではないでしょうか。ところで、中庭のエゾヤマザクラに2日ほど遅れて、正門そばのソメイヨシノも開花しました。まだ満開には数日ありそうですが、わずかな時間を精一杯咲ききって、道行く人の目を楽しませ惜しまれながら散っていく桜の花からも、皆さんに向けて「がんばってね」のエールが送られているように感じます。
さて、今年度最初の宗教講話の時間です。中学1年生の皆さん、3カ年コースの高校1年生の皆さんにとっては初めての宗教講話になりますから、どんな内容なのかまだわからないでしょうが、先日新入生の皆さんにお渡しした『新約聖書』の中のどれかの文書から短い個所を選び、それに関連した10分から15分くらいのお話をさせていただくという形式で展開されるのが通例となっています。
聖書の言葉『ルカによる福音書』6章46~49節(「家と土台」)
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。
今からおよそ2000年前のイスラエルの地は、ローマ帝国の支配下にありました。よく訓練され統率のとれたローマ軍が主要な街に駐屯しにらみをきかせていました。多神教を奉ずる国々に取り囲まれながらも唯一の神への信仰を長年保ち続け、自分たちが神に選ばれた民族であることを誇りとしてきたイスラエルの人々にとって、ローマ皇帝を神とあがめるような異教徒に統治されている状況は、多少の自治は認められていたとはいえ、あまり喜ばしいものではなかったと思われます。
ときどき血気盛んな者が現れローマからの独立を呼びかけて反乱を企てることもあったようですが、奮闘むなしくすぐに鎮圧されるのがほとんどでした。それでも、どこかに人々の注目を集める説教師がいると聞けばその人のもとに集まり、鬱屈した自分たちの心を熱くしてくれないかと熱心に耳を傾ける人々の姿がありました。
時に希望に満ちた励ましの言葉や人々の心に刺さるような力あふれる言葉を語り、時には奇跡的に病気の人を癒す力も見せつけるイエス・キリストのまわりにも多くの群衆が集まってきたようです。ある人たちはもしかしてイエスの口から「さあ、武器を取って立ち上がろう。ローマ人をこの地から追い払おう。」という号令が発せられる時を心待ちにしていたかもしれません。しかし、イエスの口からそうした檄が飛ばされることはありませんでした。それどころか、「敵をも愛しなさい。」「右のほおを打たれたら左のほおを出しなさい。」というような、期待外れな言葉が語られる場合がほとんどでした。また、心底からイエスを通して働かれる神の力による癒しを願ってイエスのもとに集まる人々だけでなく、ただ奇跡を見られたらしめたものだと言わんばかりの野次馬根性で「先生、先生。」とか「主よ、主よ。」と呼びながら、イエスの後を追っかける人たちもいたようです。そういう人たちに向かってイエスは語ります。「わたしの行う業や語られる言葉の表面的な目新しさに目を奪われ、ただ感心するだけで終わりにしないでほしい。実際にわたしの教えを実行してみようと汗を流す努力をしてほしい。わたしの口から語られる言葉が本当にわたしがいつも主張しているように神様のお考えに沿った揺るがない堅固な生き方につながるのか、まことの幸せに至る道なのか、自分でもゆっくり確かめながら、わたしの言葉や行いを受け止めなさい。そうすれば、たとえ暴風雨や干ばつが来ようと、ローマ人からの迫害や圧政があろうと、何も恐れることはないよ。」イエス自身、人々からの称賛の声にも、罵詈雑言にも振り回されませんでした。常に神のお考えがどこにあるのかを追求し、それに従って生きようとする姿勢を貫いていました。
中学生や高校生の時期はたくさんのことを学ぶように求められます。しっかり学べているか、理解が定着できているかを確認する試験も次々に待ち構えています。ついつい点数という結果を欲しがってしまうかもしれません。誰かの模範解答の丸暗記などの手段で良しとしたくなるかもしれません。世の中もできるだけ時間をかけずにいかに素早く解答を示せるか競争しているような状況です。でも、そうした雰囲気に流されず、しっかりと腰を据えてよく考えてみることが大事になってきます。先生が教えてくれることやまわりの仲間の意見を聞いて、いったん自分でもわかったような気になっているけれど、本当にその答えでいいのか、なぜその答えが出てきたのか、もっといい答えはないのか、じっくり確かめる時間も大切ではないでしょうか。
勉強以外の普段の行動においても、青少年期は仲間外れになることへの恐れから、誰かの意見に身を任せたり、まわりの声にあおられて本意でもない行動を選んだりする場合もよくあるようです。小さいつぶやき声のようなものかもしれないけれども自分の心の中にある良心の声に耳を傾けながら、仲間がどう言おうとも間違っていると感じる行動は選ばない、やるべきだと思う行動は周囲から冷やかされようとも実践する、そんな勇気を持ちたいものです。あるいは、もっと本質的な問いかけ、なぜ人は学ぶのか、何のために生きているのか、そうした根源的な問いの答えを求めて模索し思索を深めることもとても意義深いことです。自分に向き合い、人間という存在に向き合い、本質を問うていく姿勢が、今後の自分というものの骨格を、土台を確かに作っていくことは間違いありません。若い年齢の時に、苦労を嫌がり、表層的なものの獲得で満足するような姿勢ができあがってしまうと、大人になってもそこから抜け出せなくなってしまうように思います。新たな自分への脱皮を目指して、今という時を大切にお過ごしください。