札幌光星中学校・札幌光星高等学校

宗教講話2026

2026年(令和8年)10月13日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 皆さんおはようございます。朝晩はめっきり肌寒くなりましたね。布団から離れたくないとぐずりたくなる日が増えてきたかもしれませんがお元気でしょうか。
今日の宗教講話は、フランス革命のさなかに革命政府によってスペインへの追放生活を強いられたシャミナード神父がサラゴサの街でどのような生活をしていたか、彼がその街の大聖堂内に安置されていたマリア像の前でどんな啓示を受けたかといったことについて話してみます。もし新書版のシャミナード神父の伝記である『福者ギョーム・ヨゼフ・シャミナード神父』の本を持っていたら、あとで30~35ページの“6 サラゴサへの亡命”という箇所を読んで確かめてみてください。でも最初にいつものように聖書をお読みします。

聖書の言葉(ヨハネによる福音書19章25~27節)

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 今読み上げたヨハネ福音書の箇所は、イエスが同胞であるユダヤ人の指導者たちの反対を受けて捕えられ、ローマ総督ピラトのもとへ連行され、ピラトから死刑の宣告を受けたのち、ローマ人が自分たちの支配下においている者たちに課す最も重い刑罰であった十字架にはりつけにされ、今まさに息を引き取ろうとしている場面です。自分の十字架を見上げていた人々の中に、母親のマリアと弟子の一人ヨハネの姿を見つけたイエスが、二人に言葉をかけます。母に向かっては「この弟子はあなたの子です」、弟子に向かっては「見なさい、あなたの母です」と。そして、このときからこの弟子はマリアを自分の家に引き取ったと書かれています。
 このイエスの言葉は、カトリック教会では今日に至るまで、イエスの母であったマリアに対して、ご自身のあとに従って行こうと努めるすべての人を母親として見守り支え続けてくれるようにと望んだイエスの意思表明の箇所だと受け止められてきました。同時に、すべてのキリスト者に対してマリアを母と慕うように、そして彼女に励まされながら希望を持って生きていくように促すイエス直々の言葉として大切にされてきたものでもあります。
 以来、マリアがいろいろなあり方でキリスト者たちを支え励まそうとしてきた種々のエピソードがあちこちで語り伝えられてきました。スペインのサラゴサには、紀元後40年頃の出来事として、イエスの弟子の一人であったヤコブという人がスペインまで宣教に出向き、イエスの十字架上の死とその後に起こった復活という不思議な出来事や、イエスの愛の教えを述べ伝えようとした際に、なかなか人々に受け入れられず失意の内にエルサレムに戻っていこうとしていた時に、この地を流れる川のほとりでマリアがヤコブに現れ、ここに教会を建て、わたしマリアの保護の下に置くようにと求めたそうです。ヤコブがその通りにすると、その後のスペインでの宣教が軌道に乗っていったと言われています。ヤコブはその後エルサレムに戻り、そこで殉教することになりますが、その遺骨は後にスペインに運ばれ、イベリア半島の最西端の街にあるヤコブの墓所とされる場所の上に有名なサンチャゴ・デ・コンポステッラの大きな教会堂が立っています。
 さて、サラゴサに話を戻すと、聖母マリア出現の地に立てられた小さな礼拝堂には、ヤコブがマリアの出現の様子を刻んだとされる木彫りの小さなマリア像も安置されていて、今日に至るまで大切な巡礼地となってきました。年月を重ねる中で火事による焼失や再建などを経て、小さかった礼拝所は後には4本の大きな尖塔を持つ壮大な姿になっていきます。そして毎年10月12日には「柱の聖母」を記念する祝日が盛大に祝われ、スペイン語圏からの人を中心に多くの巡礼者を集めています。シャミナード神父がこのサラゴサに亡命してきた日は1797年10月11日、すなわち祝日前夜に当たっていましたが、その時代もサラゴサの街は多くの巡礼者でごった返していたそうです。
 シャミナード神父はその後の3年間をフランスから追放されてきた神父ら数名と借り住まいでの共同生活をしていきました。シャミナード神父はかつてヤコブが聖母マリアの像を作ったように、木彫りのマリア像を作り巡礼者に買ってもらったりして生活費の足しにしていたようです。そのかたわら、時間を見つけては柱の聖母マリアの像が置かれた小聖堂で祈り、将来の自分の果たすべきことについて黙想することを常にしていました。そんなある日、突然目の前のマリア像からもたらされたかのように彼のうちに一つの思いが湧き起こってくるように感じます。「イエスは生涯にわたって母マリアに対して子としての孝愛の心を向けられた。十字架上でお亡くなりになる直前には弟子のヨハネにもマリアを母として大切にしなさいと教えられた。マリアの子になろうと努めることによってイエスの心に近づくことができ、救いの道を見出すことにつながっていくに違いない。」そんな思いがシャミナード神父の心を占めていきました。さらに、柱の聖母像の前で黙想の日を続けながら、今後の自分が向かう道が徐々に鮮明になるように感じていきました。それは、フランスに帰国できたならマリアを母としていただく者たちによる力強い信仰の生き方を人々に証し続けることによって悪や暴力に負けない集団を作っていくこと、聖母マリアの保護に委ねながら若者たちをより良い道へと促していくこと、それこそが自分に与えられた使命であると確信していきました。
 スペインからの帰国が赦されボルドーに戻ったシャミナード神父は、活動の場として自分に託されたマドレーヌ小聖堂で、サラゴサの教会で感じ取り、少しずつ温めていったヴィジョンを具現化していきます。青年男女を集め、彼らをマリアへの孝愛を共にし、イエスの徳に倣い、神への信仰に生きる集団へと導いていこうと熱心に働きかけていきました。その信徒のグループの中から、1816年にはマリアに生涯を捧げようという女性たちが女子修道会をスタートさせ、翌1817年にはマリア会という名の男子修道会が生まれていきます。10月12日はサラゴサに出現したマリアを記念する祝日ですが、シャミナード神父に与えられたヴィジョンを種として生まれてきた信徒や修道者の人たち(マリアニスト家族)にとってはその起源を記念する日でもあります。

2026年(令和8年)9月15日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 皆さんおはようございます。9月も半ばが過ぎて朝晩には肌寒さを感じる季節となりましたが、「油断していると風邪をひいちゃうよ。さあ、気を引き締めて頑張ろう」と促されているような気もしています。皆さんはいかがお過ごしですか?一学期末試験も終わり、シルバーウイークと秋休みが控えていますが、それが終わるといよいよ二学期の始まりです。体調に注意しながら悔いのないように毎日をお過ごしください。
 今日の宗教講話は、わたしたちの歩みをつまずかせ、生活を苦境に陥らせるようなことがらについて、そして赦すということについても話します。

聖書の言葉(ルカによる福音書17章1~4節)

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 いま読み上げたルカ福音書に出てきた“つまずき”という言葉はわかりますか。本来的な意味は、歩いているときにつま先が小石や段差に引っかかり転びそうになることですよね。そこから転じて、物事や計画が思わぬトラブルなどに見舞われて、うまくいかず失敗したりする様子を意味することもあります。イエスは、わたしたちの日常生活において何かの拍子につまずいて転ぶことや、予期していなかった障害のために挫折や失敗に見舞われることはしばしばあることで、避けられないことだと語ります。
わたしは2019年までの15年間、東京にある姉妹校暁星学園の小学校で、学園付きの司祭として勤務していました。この小学校は今でも、その先に控えている暁星中学校や暁星高校と同じく男子校で、毎年40人の3クラスを募集していますが、それなりに歯ごたえのある暁星小学校の入学試験をクリアしようとほとんどの子が幼稚園の頃から学習塾に通っているようです。その努力のかいがあって入学してきた児童たちはそれなりに自信やプライドを持っています。
 ところが、入学してしばらくすると、同じクラスに自分よりも計算が速くて間違わない子がいるとか、サッカーボールのリフティングが飛び抜けて上手な子がいるとか、自分なんか比べものにならないくらい足の速い子がいるなどという現実を突きつけられたりします。戦国大名については自分ではかなり知っているつもりだったけどもっと知識量がすごい子がいて圧倒されるなどの経験をしたりします。一種の“つまずき”体験です。それまで順調な歩みを見せてきたような、明るく元気な子が、自信を失いかけ、劣等感をおぼえるような、いわゆる壁にぶつかって、本当にしばらく落ち込む児童もいました。そんな挫折感を味わった子でも、1年、2年とコツコツ努力していき、上級生になるころには周囲の人が驚くほどの成長を見せることも決して珍しくはありませんでした。
 わたしたちのつまずきの原因となる事柄は、そうした挫折体験の他にも、さまざまな形で日常生活に潜んでいます。突然の災害、予期せぬ病気、事故、他者からの誤解、誘惑などなど。それらを完全に避けることはむつかしいとイエスも語っています。
 その上で、イエスは話しを続けます。誰かを意図的につまずかせてしまう人がいる。それはとても大きな過ちなのだと。善悪の判断がしっかりとできない幼い子を悪い道に引っ張り込もうとすること、誰かをおとしめよう傷つけようとの思いをもって嘘をついたり、噂を流したりすること、真面目にコツコツと生きている人をだますこと、言葉や行いをもっていじめること、なかなか達成できないような課題を示して無理強いすること、誰かの人格を否定するような言動をとり続け追い詰めていくこと、つまずきやすく倒れやすい人の前に意図的に障害となるものを置いて素知らぬ顔をしているなどなど。そんなことをする人は、重たい石の挽き臼を首にくくりつけて海に沈められても仕方のないのだというような、イエスにしてはとてもきつい言葉で非難しています。わたしたちは自分の振るまいが誰かを意気消沈させ、息苦しくさせ、深く傷つけてしまっていないか、ときどき静かにふり返ってみたいものです。自分の反省だけでは見えてこないことが周囲からの忠告で気づくこともあります。親しい友人に、謙虚に尋ねてみるのもいいかもしれません。
 ところで、誰かをつまずかせ、手ひどく傷つけてしまうような大きな過ちを犯しても、その過ちに気づき、それを深く悔いて、心底から相手に赦しを願ってきたら、赦してやりなさいともイエスは教えます。しかしそれは容易なことではありません。イエスの弟子のリーダーだったペトロがイエスに尋ねたことがあります。「(赦せと言ったってそう簡単じゃあないですよ。赦せ赦せとおっしゃいますけど)何回まで赦せばいいのですか?一日に7回までですか?」イエスが答えました。「7を70倍するまで赦しなさい。」つまり、何度でも相手との関係を修復する努力を続けるようにと求めました。それと併せて、神様がわたしたちの過ちを赦そうと手を差し伸べてくださる方であり、愛し続けてくださる方であることを、「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」など、いろいろのたとえ話を用いて示されました。あなたの過ちを赦そうと待ち構えておられる神様のことを思い浮かべながら、あなたも赦しを求めて来る人を受け止めなさいと。
 誰かから傷つけられ、しかも悪意をもって大きな痛手を被った人が、いくらその加害者が真剣に悔い改め赦しを願ってきたとしても、そう易々と「赦します」の言葉は発せられないかもしれません。いっぽうで、誰かに対して、誰かから受けた仕打ちに対しての怒りや憎しみをずっと抱え続けていく生き方も辛いものがあります。イエスが話すように、自分も赦されたことがあるという思いが少しでも心の中に感じられるようになれば、誰かから受けた傷を少しずつ癒やしてくれることにつながるかもしれません。わたしたちのまわりに起こるいろいろなぶつかりから生じるものにたいして、神様から回心と赦しと解放の恵みが与えられるように祈ります。

2026年(令和8年)8月24日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 皆さんおはようございます。今年の夏は札幌では思ったほど気温が上がらなかったように感じましたが、夏期休暇中、皆さんはいかがお過ごしでしたか?大会などのため、道外の蒸し暑さの中で頑張ってきた皆さんも、札幌でコツコツと勉強に集中していた皆さんも、お疲れさまでした。さて、この夏も各地で自然災害が起こりました。熊本の地震や千葉の大雨による洪水によって命を落とされ、住まいやお店や工場、農耕地に大きな被害を受けた方々がおられます。外国でも大地震によって亡くなられた方、被災された方がたくさんおられました。猛暑の中、汗だくで必死に生きる努力をされている被災地の方々のために、わたしたちも何かできることを探していきましょう。朝の登校時間に生徒玄関で生徒会とカトリック研究部の皆さんが募金活動を行ってくれていますので、その機会も利用できると思います。


聖書の言葉(使徒パウロのコリントの教会への第2の手紙」9章6~10節)

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

 以前から来日される外国人観光客は少なくなかったと思いますが、近年は “オーバーツーリズム”の言葉が頻繁に口にされるぐらい、日本各地の観光地を訪れる“インバウンド”外国人観光客の多さには驚かされます。そんな観光客の皆さんは、ゴミがほとんど見当たらないきれいな街並み、よく手入れされた歴史的建造物、狭い平地という制約を皆で力を合わせて段々畑や棚田を整備することで乗り越えてきた先人の努力の跡、四季折々に豊かな実りをもたらてくれるよく管理された耕作地、各地の気候風土に根ざしつつ実用性と美しさを兼ね備えた工芸品の数々、清潔感溢れる店内で提供される各地のおいしい料理の数々、多くの日本人から示されるおもてなしの心とか、社会全体に他者への気配りの心が感じられるところ、などなど初めての方もリピーターの方も同じようにさまざまな場面で体験した日本の魅力を口にされています。日本人の一人としてそうした称賛の声を聞く度に誇らしい気持ちになります。
 でも、日本はずっと昔から変わらず美しい姿を保ち続けてきたわけではありません。何度も繰り返された戦乱によって町や村が焼き滅ぼされたりしました。また日本は自然災害の多い国です。梅雨時から台風シーズンにかけて毎年のように大雨や強風による災害があちこちで繰り返されてきました。大地震や津波もしばしば起こり各地に甚大な被害をもたらしてきました。また火山国でもある日本ではときどき火山の噴火による被害も体験してきました。それらの人為的な破壊行動や自然災害の度に、多くの人命が失われ、建物や土地が見る影もなく激しく損壊されこともありました。生き残った方々が、押しつぶされたり押し流された我が家を前に頭を抱えて呆然とされている姿をニュースで見る度にわたしは心が激しく揺さぶられます。自分がその立場におかれたらどうするだろう、どんな気持ちになるんだろう、何ができるんだろうと、胸が苦しくなります。
 おそらくこれまでも被災された多くの方が、目の前の惨状に打ちのめされ、自分や自分の家族の力だけではこれからどうやって生活を再建していけるのか考える気力さえ失い、泣き崩れることしかできない状況におかれることが一度ならずあったろうと思います。でも、隣にも同じ苦境に陥っている人がいる、同じ地域の何人もの人が辛い状況におかれている、それに気づきお互いに声を掛け合う中で、また国や自治体からのそしてまた他の地域の人たちからの支援にも勇気づけられ励まされながら、自分たちは一人きりではない、共に助け合い励まし合っていけば時間はかかっても少しずつ立ち直っていけるかもしれない、そんな気力や希望が少しずつ湧いてきたのではないでしょうか。そうやって、皆で協力し合い、崩落した崖の石を1個1個積み立て直して補修し、土嚢の1袋1袋を積み重ねて決壊した川の土手を補強していったのでしょう。互いの住まいも耕作地もできるだけ助け合いながら再建していったのでしょう。
 どうせ再建しても災害が発生すれば無残に崩落するに違いないから汗水流して復興の努力をするのは無駄なことと、諦めの気持ちが強かったらどうなっていたでしょうか。また、遠方に起こったことで自分には関係ないと無関心を決め込み再建のための努力に非協力的な人が多かったらどうなっていたでしょうか。今日多くの外国人観光客を惹きつけている日本の街並みや風景の美しさ、日本人らしい心情として称賛される思いやりやおもてなしの心などは失われていたかもしれません。自分たちの国が災害の多い所であると経験的にわかっていながら、でも生きることに絶望せず、投げやりにもならず、他者を思いやりつつ互いにできることを惜しみなく提供し合い支え合って生きていこうとしてきた、それが日本人の確かな一面ではないかと感じます。
 先ほどの聖書の箇所で、惜しまず豊かに蒔く人、喜んで与える人を神は愛してくださると述べています。わたしたち一人ひとりの力は微々たるものかもしれません。しかし、それを誰かのために惜しむことなく喜んで差し出していこうとするときに、神が支えてくださり大いなる実りをもたらしてくれると教えています。今日の聖書箇所は、災害など困難に遭遇したときに思い出してみたい箇所としてとりあげましたが、些細なことであっても惜しまず全力で取り組むという姿勢は、日常生活の様々な場面でも、また皆さんのように何かを学ぶときにも大切な心構えではないでしょうか。来週は1学期末試験が待っています。健闘を祈ります。
 

2026年(令和8年)6月30日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 皆さんおはようございます。お元気ですか?現在、アメリカ、カナダ、メキシコの合同開催によるサッカーのワールドカップが開催中です。日本チームは大会直前から主要メンバーが何人もけがで出場できなくなるという事態をはじめとして次々に試練や困難に遭遇しながら、弱気の虫に負けないで今やるべきこと今できることに共に全力でチャレンジしようという雰囲気が感じられ、わたしは試合の結果も気になりつつも、その前向きなメンタリティーにとても驚きを感じながら観戦していました。今朝の試合結果はとてもとても残念でした。本大会での彼らの活躍をもう少し見ていたかったです。
 さて、今日の宗教講話は、誘惑について話します。

聖書の言葉(マタイによる福音書4章1~11節「誘惑を受ける」)

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 旧約聖書の「創世記」1~3章には、神様に創造された最初の男と女が神様の用意してくださったエデンの園というすばらしい環境の中で、他の生き物たちとも調和を保ちながら穏やかに生活し始めていたことが語られています。何も問題が起こりそうになかったところに、蛇の姿をした誘惑する者が近づいてきて女にささやきます。「神様はここにあるどんな木からもとって食べるなと命じたのか?」女は答えます。「わたしたちにはここにあるどの木の実も食べていいと言われていますが、園の中央にある木の実だけは食べても、触ってもいけない、死んでしまうから、と言われています。」蛇は女に言います。「それを食べても決して死ぬことはないさ。それどころか神様のように善悪を知るようになることを神様は知っておられるのだ。」蛇からそう言われて、女があらためてその木を眺めると、何か魅力的で、賢くなれるよと唆してくるように感じて、その実を取って食べ、一緒にいた男にも渡して、彼も食べた。そうしたら、ふたりとも目が開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆ったと書き記されています。少し長くなりましたが、「創世記」3章1~7節までを紹介してみました。
わたしたちには本来生きていくために必要ないろんな欲求、例えば食欲、睡眠欲、所有欲、性欲、承認欲求などがそなわっています。わたしたちは成長する過程で、自分の内にあるそれらの欲求を意識しながら、同時に周囲の人の存在やその人たちからの要求をも念頭に置いて、社会的にゆるされるやり方で欲求を満たすことを学んでいきます。でも、自分の中にある欲求をコントロールすることはそんなに容易いことではありません。自分の内にあるさまざまな欲求や衝動を抑えきれずに暴走してしまい、周囲を混乱させて傷つけてしまうこともあります。
また、わたしたちのまわりにはいろいろな誘惑の種が潜んでいます。誰かがそっとささやきかける言葉、あるいはネットの中から手を変え品を変えしながらわたしたちの目と心を惹きつけようと迫ってくるさまざまな呼びかけがあります。それらはわたしたちの心をある方向へと、しばしば悪の道へと引っ張っていこうと狙っています。
 先ほど紹介した「創世記」の中の蛇は、人間の中にあるもっと賢くなりたいとか、限界や制約を超えて自由に羽ばたきたいといった向上心などに働きかけ、あわよくば人間を本来神様が望んだ道からそれさせようとの狙いをもって近づきささやきかけます。誘惑者は女だけに話しかけているように描かれていますが、男でもよかったと思います。外からの唆しによって自分の内に芽生えた心の動きや変化などを、もし隣りにいる人に相談できていたら、もしかして違う結果になっていたかもしれないと感じます。
 内からの衝動にしろ、外からの誘惑にしろ、一人でだけでそれと向かい合っていると、かえってその影響力がどんどん大きくなり、絡め取られてしまうこともあり得ると「創世記」は語っている気がします。誘惑を感じたときには、できれば誰かに聴いてもらうことが助けになるのではないかと思います。ただ、こちらの心の中を知ったらそれを手がかりにして傷つけようとしてくる人もいたりするようなので、できれば冷静に耳を傾けてくれ、こちらの秘密を悪意を持って利用しないような経験豊かな大人に聴いてもらうのが助けになるかもしれません。
 イエス・キリストは、わたしたち人間が試練に遭うと簡単に倒れやすく、誘惑にはしばしば負けてしまい、善を願う心を持ちながらもついつい悪を行ってしまうことが多い存在であることをよく知っていました。だから、弟子たちに教えてくれた「主の祈り」の末尾で「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と、神様にいつも祈りなさいと教えています。また、神様からの、あるいは大切な誰かからのわたしたちへの願い、期待、信頼を忘れず、それを心の中にしっかりと意識しながら生きていこうと努めるときに、簡単に誘惑に飲み込まれてしまうことはないと教えるために、悪魔の誘惑と対峙しこれを退けるご自身の姿を見せてくれたような気がします。

2026年(令和8年)5月20日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 皆さんおはようございます。お元気ですか?インターハイの予選が始まっています。試合に出られる選手の皆さんが精一杯のパフォーマンスを発揮できるよう祈っています。またちょうど2週間後には一学期の中間試験も控えています。コツコツと地道な日々の努力の積み重ねを忘れないでほしいです。
毎年の個人的な感想なんですが、5月の札幌のいろんな情景を眺めながら、ああこれが北国の春かあと感じ入っています。わたしの故郷、九州の長崎では1月に水仙が咲き、2月には梅の花が、3月には桜が咲いていたように記憶していましたが、こちらでは5月になってありとあらゆる樹木が新芽を芽吹かせ、たくさんの草花が一斉に咲き始めるように見えます。生き物たちもこの時期、活発に動き出し、いのちをつなげるためのさまざまな行動へと挑戦していきます。人間も心弾む季節と感じるのかGWの時期とも重なりあちこちに山菜取りや行楽に出かける人の姿が多くなります。5月はまた、母の日を祝って花束や贈り物が子どもたちからの感謝を込めてお母さんにプレゼントされたりします。カトリック教会ではイエス・キリストの復活を喜び祝うシーズンのまっただ中だったり、イエスの母マリア思い起こす聖母月であったりします。いろんな意味で5月は喜びの季節と言ってもいいのではないかと思っています。

聖書の言葉(マタイによる福音書6章25~34節「思い悩むな」)
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い
悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 長く厳しかった冬が遠ざかり、日一日と雲間から温かい日差しが注がれるようになると、そこかしこでいろんな花が咲き乱れ、枯れ草の野原では青々とした野草が伸び始めます。そんな草花の間を、なんとかいのちをつないできた蝶や小鳥たちが蜜を求めて飛び交います。青草を食べる動物たちはたっぷりとお腹を満たし、新しいいのちも母親の胎内に宿されていきます。先ほど読まれた福音書に描かれるような情景が、神の祝福の下でなされているかと思わせるように、毎年のように繰り返されていきます。
 でも、生きとし生けるものたちが活発に行動するこの季節ですが、喜びの季節なんてとんでもないと感じている方もいるかもしれません。涙目になり鼻をグズグズさせながら「うっとうしいなあ」「外に出たくないなあ」とつぶやいている花粉症の方もおられるかもしれません。また、新しい環境での人間関係や仕事や勉強上の悩みを抱えて、なんとなく重たい気持ちで日々を過ごしているかもしれません。しっかり準備して臨んだはずの舞台で思い描いたような結果を手にすることができずにガックリと肩を落としている人もいるかもしれません。
 自然界の季節の移り変わりと言っても、当然ながら毎年同じ日に同じ気温になっているわけではありません。風の強さや方向、海水温や波の高さ、暖房をつけた日消した日、年によって多少のずれはあります。でも世界の海水温、風の流れ、温暖化の傾向などが絡まりながら季節が動いていきます。個人や一国の奮闘だけでそのサイクルが左右されていくものでもありません。古来、その自然界の動きの根源に、人知を超えたものの存在を感じてきた人間の歴史があります。
 自分の思い通りにいかない状況に悩んでいる皆さん、疎外感を感じている皆さん、むつかしい病気に罹患し落胆している皆さん、その困難な状況がなかったら幸せいっぱいの日々が送れていたでしょうか。もしかしたら、困難や障害にぶつかったから、自分の中の何とかしようとする内からのエネルギーを実感できたという人もいるかもしれません。真の支えとなってくれる友人の存在に気づく機会になるかもしれません。何もできない無力な存在だと感じていた自分の、忍耐強く日々を過ごそうとトライする姿が誰かの生き方に大きな影響を及ぼしているかもしれません。人間、一様ではなく、考え方、受け止め方、感じ方も、人さまざまです。「わたしたちに生きる力と他者と関わろうとする意欲を与えてくださった方がおられるなら、その方はきっと皆さんが困難の中にあっても、何らかの助けの手を差し伸べてくださるよ。」イエス・キリストがマタイの6章で語っているのは、そういうことです。困難は、わたしの成長を願う神が用意している試練かもしれません。もっと強い嵐が来ても倒れることなく、その枝の下に日陰と安らぎを求めて腰を下ろす人たち喜ばせるほどにわたしたちが大きく力強く育つために。

2026年(令和8年)4月21日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 おはようございます。昨日夕方の地震や津波で皆様方の故郷や知り合いの人たちへの被害や影響はありませんでしたか?しばらくは後発地震に注意しましょう。
 新年度が始まって2週間ほどたちましたが、皆さんお元気ですか?新入生の皆さんは若干の不安を抱えながらの光星学園でのスタートだったかもしれませんが、毎朝正門そばに立って笑顔で出迎えてくれる駒井校長先生の姿によって元気づけられている人も多いのではないでしょうか。ところで、中庭のエゾヤマザクラに2日ほど遅れて、正門そばのソメイヨシノも開花しました。まだ満開には数日ありそうですが、わずかな時間を精一杯咲ききって、道行く人の目を楽しませ惜しまれながら散っていく桜の花からも、皆さんに向けて「がんばってね」のエールが送られているように感じます。
 さて、今年度最初の宗教講話の時間です。中学1年生の皆さん、3カ年コースの高校1年生の皆さんにとっては初めての宗教講話になりますから、どんな内容なのかまだわからないでしょうが、先日新入生の皆さんにお渡しした『新約聖書』の中のどれかの文書から短い個所を選び、それに関連した10分から15分くらいのお話をさせていただくという形式で展開されるのが通例となっています。

聖書の言葉『ルカによる福音書』6章46~49節(「家と土台」)
 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。

 今からおよそ2000年前のイスラエルの地は、ローマ帝国の支配下にありました。よく訓練され統率のとれたローマ軍が主要な街に駐屯しにらみをきかせていました。多神教を奉ずる国々に取り囲まれながらも唯一の神への信仰を長年保ち続け、自分たちが神に選ばれた民族であることを誇りとしてきたイスラエルの人々にとって、ローマ皇帝を神とあがめるような異教徒に統治されている状況は、多少の自治は認められていたとはいえ、あまり喜ばしいものではなかったと思われます。
 ときどき血気盛んな者が現れローマからの独立を呼びかけて反乱を企てることもあったようですが、奮闘むなしくすぐに鎮圧されるのがほとんどでした。それでも、どこかに人々の注目を集める説教師がいると聞けばその人のもとに集まり、鬱屈した自分たちの心を熱くしてくれないかと熱心に耳を傾ける人々の姿がありました。
 時に希望に満ちた励ましの言葉や人々の心に刺さるような力あふれる言葉を語り、時には奇跡的に病気の人を癒す力も見せつけるイエス・キリストのまわりにも多くの群衆が集まってきたようです。ある人たちはもしかしてイエスの口から「さあ、武器を取って立ち上がろう。ローマ人をこの地から追い払おう。」という号令が発せられる時を心待ちにしていたかもしれません。しかし、イエスの口からそうした檄が飛ばされることはありませんでした。それどころか、「敵をも愛しなさい。」「右のほおを打たれたら左のほおを出しなさい。」というような、期待外れな言葉が語られる場合がほとんどでした。また、心底からイエスを通して働かれる神の力による癒しを願ってイエスのもとに集まる人々だけでなく、ただ奇跡を見られたらしめたものだと言わんばかりの野次馬根性で「先生、先生。」とか「主よ、主よ。」と呼びながら、イエスの後を追っかける人たちもいたようです。そういう人たちに向かってイエスは語ります。「わたしの行う業や語られる言葉の表面的な目新しさに目を奪われ、ただ感心するだけで終わりにしないでほしい。実際にわたしの教えを実行してみようと汗を流す努力をしてほしい。わたしの口から語られる言葉が本当にわたしがいつも主張しているように神様のお考えに沿った揺るがない堅固な生き方につながるのか、まことの幸せに至る道なのか、自分でもゆっくり確かめながら、わたしの言葉や行いを受け止めなさい。そうすれば、たとえ暴風雨や干ばつが来ようと、ローマ人からの迫害や圧政があろうと、何も恐れることはないよ。」イエス自身、人々からの称賛の声にも、罵詈雑言にも振り回されませんでした。常に神のお考えがどこにあるのかを追求し、それに従って生きようとする姿勢を貫いていました。
 中学生や高校生の時期はたくさんのことを学ぶように求められます。しっかり学べているか、理解が定着できているかを確認する試験も次々に待ち構えています。ついつい点数という結果を欲しがってしまうかもしれません。誰かの模範解答の丸暗記などの手段で良しとしたくなるかもしれません。世の中もできるだけ時間をかけずにいかに素早く解答を示せるか競争しているような状況です。でも、そうした雰囲気に流されず、しっかりと腰を据えてよく考えてみることが大事になってきます。先生が教えてくれることやまわりの仲間の意見を聞いて、いったん自分でもわかったような気になっているけれど、本当にその答えでいいのか、なぜその答えが出てきたのか、もっといい答えはないのか、じっくり確かめる時間も大切ではないでしょうか。
 勉強以外の普段の行動においても、青少年期は仲間外れになることへの恐れから、誰かの意見に身を任せたり、まわりの声にあおられて本意でもない行動を選んだりする場合もよくあるようです。小さいつぶやき声のようなものかもしれないけれども自分の心の中にある良心の声に耳を傾けながら、仲間がどう言おうとも間違っていると感じる行動は選ばない、やるべきだと思う行動は周囲から冷やかされようとも実践する、そんな勇気を持ちたいものです。あるいは、もっと本質的な問いかけ、なぜ人は学ぶのか、何のために生きているのか、そうした根源的な問いの答えを求めて模索し思索を深めることもとても意義深いことです。自分に向き合い、人間という存在に向き合い、本質を問うていく姿勢が、今後の自分というものの骨格を、土台を確かに作っていくことは間違いありません。若い年齢の時に、苦労を嫌がり、表層的なものの獲得で満足するような姿勢ができあがってしまうと、大人になってもそこから抜け出せなくなってしまうように思います。新たな自分への脱皮を目指して、今という時を大切にお過ごしください。